メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ポストコロナの観光地づくり《上》出石の町衆の心意気――歴史を守り育てる

【6】“但馬の小京都”に学ぶ~興隆の鍵は自立・自律の精神

沓掛博光 旅行ジャーナリスト

コロナ禍の時代の観光と町づくりとは

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために政府が求めてきた移動自粛が、6月19日から全面的に解除された。県境を越えての旅行が徐々に増えてくるとの期待が高まる一方で、旅行中の感染予防や万が一の発症への対処など、未知の体験への不安と困難さがつきまとう。

 時間は少し戻るが、総務省が6月5日に発表した4月の家計調査で、パック旅行費が前年比97.1パーセント減となった。観光旅行には誰もが慎重になっていると見ていいだろう。コロナ禍と共に暮らす私達の生活は、仕事もプライベートな時間も、従来の仕方を見直し、模索する時期にさしかかってきた。こうした機会に、「観光と町づくり」という地域振興のキーポイントを問い直してみるのはどうだろう。

但馬地方の城下町・出石

 兵庫県豊岡市にある出石町(いずしちょう)地区は、「住みたい町」「再び訪れたい町」作りに取り組んでいる。同市内には有名な城崎温泉があるが、出石町は温泉地近くを流れる円山川(まるやまがわ)の上流に注ぐ出石川と谷山川沿いに広がる。江戸時代から小出、松平、そして仙石氏の城下町として栄えた。その足跡をたどると、観光による町づくりの成功の鍵は、「自立、自律」にあることが見えてきた。

かつてあった大手門の近くに立つ辰鼓楼。城と共に出石の人々のシンボルになっている(筆者撮影)
 出石町は、兵庫県の北部、やや日本海側近くに位置する。平成17(2005)年、自治体としての出石町は豊岡市や城崎町など他の5市町と合併し、新たに誕生した豊岡市の1地区となった。城崎温泉からは車で約40分、大阪市内からは3時間ほどのところ。近畿圏からは日帰りで楽しめる距離にあり、城崎温泉と併せて1泊旅行で訪れる観光客も多い。年間の観光客数は約70万人。

 出石町には、南側に2つの城跡がある。中心部からも眺められる有子山(ありこやま・標高321メートル)の山頂には、戦国時代の天正年間に但馬守護であった山名祐豊(やまな・すけとよ)が築城した有子山城跡(国指定史跡)があり、その麓には慶長年間に築城された出石城跡がある。

 有子山を背にした北側が旧城下町で、今も町の中心部になっている。有子山城跡は石垣のみが古城の風情を残してたたずみ、出石城跡には復元された隅櫓(すみやぐら)が立つ。

 近年の町作りの起点ともなったこの隅櫓と、出石城から話を進めていこう。

有子山の麓に、出石城跡を望む。町民の寄付によって再建された隅櫓が山の緑に映える(筆者撮影)

住民の寄付で櫓を復元。自立の始まり

出石城跡にある有子山稲荷社まで続く石段と鳥居(beeboys/shutterstock)
 出石まちづくり公社の案内によれば、出石城は、有子山城から移った小出吉英(こいで・よしふさ)が慶長9(1604)年に築城。有子山の北面に沿って下から上へ階段状に延びる。

 最上段に、有子山稲荷社が立つ稲荷曲輪があり、その下に本丸、二の丸、三の丸が続き、本丸の東西に2棟の隅櫓、本丸西端に多門櫓などが立っていた。

出石城の本丸跡に復元された隅櫓。費用は全額が町民の寄付で賄われた(但馬國出石観光協会提供)
 城郭の横の長さとなる東西の幅が約400メートル、奥行きの南北が約350メートルほどであったという。藩主は、小出氏、松平氏と移り、宝永3(1706)年に信州上田より仙石氏が5万8000石で入府。後に仙石騒動により3万石に減じられて明治時代を迎えている。

 明治元年に城はすべて取り壊され、石垣のみが歴史を語るように往時の姿を留めている。その中にあって、本丸跡の東と西に立つ二つの隅櫓の白壁が一際目を引く。瓦屋根をのせ、漆喰塗りの白い壁が苔むした石垣と好対照を見せているが、この櫓は昭和43(1968)年に町民の寄付により再建された。当時の金額で2300万円が集まったそうだ。

 「出石の町の人にとって城は心のシンボル。何としても復元したかったのです。全額を寄付で賄い、2棟の隅櫓を復元することができました。これが原動力になって、新しい出石の町作りがスタートしました」と、NPO法人・但馬國出石観光協会の森垣康平事務局長(46)は言う。

城下町のシンボル「辰鼓楼」

 町作りの詳細は後に述べるとして、城址から城下へ入ってみよう。

・・・ログインして読む
(残り:約2984文字/本文:約4626文字)