ポストコロナの観光地づくり《上》出石の町衆の心意気――歴史を守り育てる
【6】“但馬の小京都”に学ぶ~興隆の鍵は自立・自律の精神
沓掛博光 旅行ジャーナリスト
住民の寄付で櫓を復元。自立の始まり

出石城跡にある有子山稲荷社まで続く石段と鳥居(beeboys/shutterstock)
出石まちづくり公社の案内によれば、出石城は、有子山城から移った小出吉英(こいで・よしふさ)が慶長9(1604)年に築城。有子山の北面に沿って下から上へ階段状に延びる。
最上段に、有子山稲荷社が立つ稲荷曲輪があり、その下に本丸、二の丸、三の丸が続き、本丸の東西に2棟の隅櫓、本丸西端に多門櫓などが立っていた。

出石城の本丸跡に復元された隅櫓。費用は全額が町民の寄付で賄われた(但馬國出石観光協会提供)
城郭の横の長さとなる東西の幅が約400メートル、奥行きの南北が約350メートルほどであったという。藩主は、小出氏、松平氏と移り、宝永3(1706)年に信州上田より仙石氏が5万8000石で入府。後に仙石騒動により3万石に減じられて明治時代を迎えている。
明治元年に城はすべて取り壊され、石垣のみが歴史を語るように往時の姿を留めている。その中にあって、本丸跡の東と西に立つ二つの隅櫓の白壁が一際目を引く。瓦屋根をのせ、漆喰塗りの白い壁が苔むした石垣と好対照を見せているが、この櫓は昭和43(1968)年に町民の寄付により再建された。当時の金額で2300万円が集まったそうだ。
「出石の町の人にとって城は心のシンボル。何としても復元したかったのです。全額を寄付で賄い、2棟の隅櫓を復元することができました。これが原動力になって、新しい出石の町作りがスタートしました」と、NPO法人・但馬國出石観光協会の森垣康平事務局長(46)は言う。
城下町のシンボル「辰鼓楼」
町作りの詳細は後に述べるとして、城址から城下へ入ってみよう。
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