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「賭け麻雀」をこれで終わらせていいのか

ジャーナリズムの意味を再確認し、「報道と権力」の関係を見直す絶好の機会をいかせ!

高田昌幸 東京都市大学メディア情報学部教授、ジャーナリスト

 新聞記者ら3人が前東京高検検事長と賭け麻雀を繰り返していた問題について、朝日新聞社は6月20日の朝刊で、執行役員編集担当兼ゼネラルマネジャー・中村史郎氏による『私たちの報道倫理、再点検します』という事実上の“お詫び社告”を掲載した。

 関係社員らの処分も済んでいるので、これで一件落着ということなのだろう。実際、朝日新聞社は筆者の質問に対し、読者にこれ以上の説明はしない旨、回答している。

 権力監視を本務とするジャーナリズムの意味を再確認し、「報道と権力」の関係を見直す絶好の機会をこれで終わらせていいのか。

緊急事態宣言下でなければ悪くなかったのか

 『私たちの報道倫理、再点検します』は、朝刊第3社会面に掲載された。4段見出しというそれなりに大きな記事だったとはいえ、1面でも第1社会面でもない場所に、ひっそりと顔を出していた。「おわび」は大意、朝日新聞社社員が緊急事態宣言下で賭け麻雀していたから悪かった、という内容である。

 世の中の全ての出来事は過去の積み重ねの結果である。「おわび」はそれを省みず、構造的な問題にも触れていない。読者の多くは憤怒し、失望し、諦念したのではないか。

 「おわび」はこう書いている。

 取材先に肉薄することで、相手の代弁者になったり、都合のよい情報ばかりを提供されたりする懸念は常にあります。批判の対象になり得る取材先との緊張感を失えば、なれ合いや癒着が疑われます。今回の問題は、報道機関の一員としてそこが問われました。

 取材先に肉薄することで得られる情報とは何か、どのようなものか。権力監視を本務とするジャーナリズムの実行者として、それらの情報をどう活用してきたのか。最も肝心なこの点について「そこが問われました」と記しつつ、具体的な回答は書かれていない。(『黒川検事長と賭け麻雀をした記者は今からでも記事を書け』参照)

ゴーン事件報道は検察権力の監視につながったのか

 「夜討ち朝駆け」に象徴される密着取材で得られる情報とは、どんなものか。相手にとって「都合のよい情報ばかりを提供されたりする懸念は常にあります」という「おわび」の見解は、実際、その通りである。数人から十数人の記者が当局者と一緒するオフレコ懇談(時に酒食を伴う)でも、どこかで1対1になった場合も、基本的にそれは変わらない。

 いつの時代であっても、権力者・当局者は自らにとって都合の良い情報を、都合の良いタイミングで、都合の良い方法を用いて発信する。権力者・当局にとって、密着取材はその好機でもある。

 一方、取材者は多くのケースで権力者・当局者とガチンコで対峙できず、彼らの論理に巻き込まれながら取材を続け、いつの間にか二人三脚の関係になっていく。「いつかは本当の記事を書いてやる」との思いをなかなか実現できないまま、取材者は異動する。そのうちに世代交代は進む。そうやって、報道界は権力監視という方向性を見失い、賭け麻雀に代表される密着取材は連綿と続いた。

 例えば、検察や警察の取材において、当局者が捜査の途中経過情報を記者に伝えるのはなぜか。事件を大々的に報道してもらい、世論を味方にしたいからだ。メディアを都合よく利用したいからだ。捜査の進展具合をどのメディアが先に報じるかという「時間差スクープ」は、そうした中で生まれ、日本の報道界に根付いた。(『「スクープ」とは何か~新聞社は「時間差スクープ」の呪縛を解け!』参照)

 「報道によって捜査を妨害された」などと当局が怒るケースはあっても、大枠では権力側が認めた中での報道合戦を繰り広げているにすぎない。実際、他社に先んじて報じる時間差スクープが権力監視につながるケースがあるとの見解は、現在においても新聞社幹部が組織内で公然と語っている。

 朝日新聞に限っていえば、最近ではカルロス・ゴーン氏の事件がケーススタディとして有効かもしれない。

 ゴーン氏事件では、朝日が先行報道し、捜査の途中経過情報を詳しく報じた。その成果を2019年度の日本新聞協会賞に応募するほどだから、朝日新聞も「これぞスクープ、ジャーナリズムの成果」と判断したのだろう。

 しかし、一連の報道が検察権力の監視にどうつながったのか、読者にはさっぱり見えない。権力監視こそがジャーナリズムの本務であることを前提とすれば、ゴーン氏の犯罪容疑を検察と一緒になって追及するのではなく、捜査が適正、適法に行われているかどうかを第一の取材テーマにしなければならないはずだ。

 政治分野の取材では、権力と報道が日常的に築いてきた関係がより鮮明になる。

 政治家と日常的に接する政治部記者が自らの手で政治権力の腐敗に切り込んでいく調査報道が、過去、どれほどあったか。近年の実例は多くない。

 権力腐敗の芽が見えたとしても、たいていは政治家との関係が壊れるのを恐れ、自ら取材に乗り出さない。それが政治記者と政治家の関係である。密着取材の概要を示した「取材メモ」が同業他社間で交換されたり、政治家との懇談メモが敵対政治家に流れたりするケースも少なくないが、逆に言うと、それほどまでに権力と報道の境界線はあいまいになっているということだ。

権力監視の取材は多様でなければならない

 取材活動は多様でなければならない。権力監視のための情報収集では、可能な限りの手段を用いなければならない。記者会見での厳しい質問、当局者による説明(通称「レク」)の場での根掘り葉掘り、情報開示請求の駆使、オープンデータの詳細な分析、知見を広げるための専門家取材……。ほかにもまだまだ方法はある。密着取材はその1つに過ぎない。(『「リーク」とは何か~当局はジャーナリズムを使って情報操作する』参照)

 そして、恐らく最も大事な手法は、街を歩き、多くの人と会い、彼ら彼女らの声に真摯に耳を傾け、社会の不正やアンフェア構造の芽を嗅ぎ取ることだ。

 そのためには、取材の担い手も多様でなければならない。密着取材こそが最も大事な取材手法であるとし、相手への密着度や時間差スクープを記者に対する評価基準の主軸にするのであれば、夜遅くまで酒席や麻雀を共にするような取材シーンに、子育てに忙しい記者たちは入り込む隙間もない。介護を必要とする肉親がいたり、夜回りや朝回りが難しい何らかの事情があったりすれば、その記者も社内競争には参加できないだろう。

 新聞・テレビの記者は、想像を絶する長時間労働の世界にいる。書類上の記載がどうであれ、毎月の勤務時間が300時間超というケースは珍しくあるまい。そうした働き方を可能にした者しか報道の仕事に参加できないとしたら、報道機関と読者との距離は離れる一方であり、社会の信頼を失うのは当然だろう。

読者からの「なぜ」に答えないのか

 今回の問題について、筆者は朝日新聞社に対し、大意、以下の3点を質問した。

① 読者向けの説明は中村氏執筆の「おわび」で終わりか
② 「記者行動基準」の見直しに際し、その議論を公開する予定はあるか
③ 「おわび」では、今回の「賭け麻雀」のみを問題として社内で議論したと読めるが、構造的、歴史的な事柄は問題にせず、本件のみを問題として取り上げ、本件のみを「おわび」しているのか

 朝日新聞社広報部からの回答は次の通りだ。

 6月20日付記事「私たちの報道倫理 再点検します」をもって、読者のみなさまに説明させていただいたと考えています。記者行動基準についてはホームページで公表する予定です。その他のことについて、回答は控えさせていただきます。

 「権力と報道」の関係を考える上で格好の材料だった今回のケースは、読者からの多くの「なぜ」に答えぬまま、このようにしてフェードアウトしようとしている。

 検証結果では朝日新聞よりも詳しい説明を行った産経新聞にしても、権力と報道の関係を根本から検証していく姿勢は見えていない。