問題の核心は記者が「誰を向いて、誰のために取材しているのか」という問いかけだ
2020年07月06日
東京高検の黒川弘務・前検事長が、緊急事態宣言下で賭けマージャンをして辞任した問題をめぐり、朝日新聞は発覚から1か月後の6月20日付朝刊で、「私たちの報道倫理 再点検します」という中村史郎・執行役員編集担当の文章を載せた。
朝日新聞読者の多くはこの文章を読んで、「腑に落ちない」と思ったのではないか。
大きなニュースを扱う場合、新聞記事は事実をストレートに記録する「本記」、事件の背景や事象への理解を助ける「解説」、社会の受け止め方や現場の雰囲気を伝える「雑感」記事という構成で、多面的にニュースを伝える。
今回の文章は、「本記なき解説」、あるいは「経過説明なき結論」という調査結果だろう。
コロナ禍で緊急事態宣言が出され、政府が「不要不急」や「3密」を避けるよう呼び掛けているさなか、東京高検のトップが賭けマージャンをしていた。しかも、相手は朝日新聞社員1人と、産経新聞の社会部次長、記者の3人だった。時あたかも、黒川氏の処遇をめぐって検察庁法改正案が、国会で紛糾するさなかの出来事だ。読者としては、「当事者」となった新聞社が、どう説明責任を果たすのか、その点に注目したことだろう。
産経新聞は6月16日、関係者の処分を発表すると共に、弁護士を含めた「社内調査」の結果を紙面で報告した。それによれば産経新聞の次長と記者は、5年ほど前にマージャンの場で朝日新聞社員と知り合い、3年ほど前から月に2、3回、固定したメンバーで、卓を囲むようになった。初めはマージャン店に行ったが、2年前の9月に記者が卓を購入し、その自宅に集まるようになった。緊急事態宣言下では7回、同じメンバーで集まり、少なくとも4回は夕方から翌未明まで、現金を賭けてマージャンをしたという。
同紙は、外出自粛を呼びかけていた新聞社の記者がこうした行為をとったことを「不適切」と判断し、「新聞記者の取材」に対する読者の信頼感を損ねることを認めた。さらに、取材対象への「肉薄」は、「社会的、法的に許容されない方法では認められず、その行動自体が取材、報道の正当性や信頼性を損ねる」として、反省点を明確にした。
残念ながら朝日新聞は、この産経新聞の報告を要約する形で、17日付の第2社会面で事実経過を報じただけだった。
今回の朝日新聞の文章は、約1か月の間に読者から約860件の電話やメールで意見が寄せられ、とりわけ多くが「権力との癒着」を批判するものだったと報告した。報道の公正性や独立性に疑念を生じさせたことをおわびし、記者行動基準の見直しを宣言した。
だが、社員の「不適切な行為」のどの点を、なぜ問題だと判断したのか、これでは読者も判断しようがない。その点が不明なままでは、「報道倫理」の再点検という宣言も説得力を失うだろう。
私はこの文章の筆者が、取材においては公正、社内の実務についても廉潔で、理非曲直をうやむやにしない人だと知っている。それだけに、朝日新聞社全体に、あえて厳しい指摘をしておきたい。日ごろ、政府や企業、スポーツ団体の「不適切」な行為に対し、あれほど「説明責任」を問う新聞社が、自らが巻き込まれた際に率先して責務を果たさないのなら、読者の信頼はつなぎとめられない、と。
今回の問題の本質は、何なのだろう。産経新聞も朝日新聞も、「権力の監視」には、取材先に「肉薄」することが欠かせない、という点では一致する。だが、産経は、その方法が社会的・法的に許されない場合は認められない、という。朝日は「批判の対象になり得る取材先との緊張感を失えば、なれ合いや癒着が疑われます。今回の問題は、報道機関の一員としてそこが問われました」という。取材に「肉薄」することは必要だが、それが「癒着」になってはならない、という考えだ。
私個人は、現役の記者当時、取材先とマージャンやゴルフをしたことがない。それは単純に両方ともできないからだ。だが飲食をともにしたことは数多いし、もし碁や将棋ができれば、取材先と打ったり指したりしたかもしれない。
「許されない肉薄」とは、産経新聞がいうように、「社会的・法的に許容できない」一線を超える場合だろう。これほど長期にわたって頻繁に賭けマージャンをする行為は、刑法の常習賭博罪に当たる可能性があり、検察であれば法務省の検察官適格審査会に付せられるケースだろう。「起訴便宜主義」で検察に裁量の余地を与えられる日本の場合は、そえゆえに「身内に厳しく」という声が出てもおかしくはない。しかも、政府や新聞社が「3密」を避け、外出を自粛するよう呼びかけているさなかだ。
だが仮に、これが取材目的の会合だったら、その「密談」は「不要不急」や「3密」に反する、として指弾されていたろうか。たぶん、そんなことはないだろう。国会を揺るがす渦中の人物なら、社会が緊急時にあっても、取材対象者に「肉薄」する、というのが取材の原則といえるからだ。たぶん、読者の多くも、それが読者の「知る権利」を満たすものなら、その必要性を認めてくださるだろう。
だが現実には、朝日新聞に多くの批判の声が寄せられたように、読者の多くは今回明るみに出た取材者と取材対象との関係に「不健全な癒着」「なれ合い」を感じ取った。私は、その読者の嗅覚に、メディアが鈍感であってはならないと強く感じている。
戦後のメディアは長く、「特ダネ」を競い合ってきた。役所の予算案や人事、企業の合併、破綻に至るまで、取材源からいち早く特ダネを取り、スクープをする記者が、「優秀」と認められた。速報性を重んじるメディア各社が、その慣行によって活性化し、切磋琢磨してきたことは疑いない。
だが、明日になれば発表されるニュースを、水面下で取材先に「肉薄」し、いち早く報じることが、報道のすべてだろうか。その手法によって、取材源への「肉薄」が、政策の誘導や操作に使われるおそれはないのだろうか。
花形の特ダネ記者と違って、調査報道で多くの問題を掘り起こした私の先輩たちは、「取材源」の高官たちに「肉薄」するより、むしろ組織では目立たない、しかし組織の不正に義憤を感じる人々からの告発や不満の声を足掛かりに、地道に巨悪を掘り崩していた。そこにあったのは、高官たちへの「肉薄」ではなく、「不正」に対する「怒り」や「執念」だった。
あるいは特ダネでも、調査報道でも業績を残せなかった私のようなタイプの記者ですら、取材先に困ることはなかった。私の場合は、権力の中心に向かうのではなく、権力とは最も遠いところで、権力に翻弄される人々が取材先だった。そこでは、「肉薄」など必要ない。だれもが本音を聞いてくれる記者が現れることを心待ちにしながら、半ばあきらめていたのだから。
私には、「権力の懐に入らなければ、権力を監視できない」とは思えない。もちろん、そうしたタイプの記者は必要だし、組織に欠かせないことは承知している。
だが、それだけが取材や報道の在り方だとも思えない。権力の専横や恣意的な行使に対し、義憤を覚える組織内の告発者、あるいは権力の犠牲になる弱い立場の人々に耳を傾け、その無力感に寄り添いながら、現場から、近くにいては見えない権力の実態をとらえなおすこと。それもまた、「権力の監視」の手法なのだと思う。
私は、今回の件で当事者になった社員については何も知らないし、その人に対するこれ以上の厳正な措置も望まない。多くの組織は、末端ほど厳しい処分をして組織防衛を図るが、メディアがそれをすれば、現場の萎縮を招き、自らの首を絞める結果に終わるからだ。私が望むのは、朝日の記者たちが、日ごろ、どのような手段で、取材先とどう付き合っているのかを包み隠さず語り合い、問題の所在がどこにあるのかを、自ら剔抉(てっけつ)することだ。
その本気度がどの程度のものかは、読者が紙面を通して、容易に読み取ってくださると思う。この問題の核心は、記者たちが、「誰を向いて、誰のために取材しているのか」という問いかけだ。
「私たちの報道倫理 再点検します」は、行動開始の宣言だと期待したい。これが「幕引き」というなら、読者の失望は朝日新聞が想定する以上に、深い。
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