「新しい日常」よりも大切な「いのち」を社会の土台に据え直すこと
ポストコロナを生きる③ 忘れていた「死の恐怖」を思い出した私達
奥田知志 NPO法人抱樸理事長、東八幡キリスト教会牧師
ポストコロナの生き方について、「コロナ前は戻るべき場所ではない。新たな社会を創るために」、「『孤立社会』日本を襲ったコロナ危機。個人の孤立化を進めないために」の2回、論じてきた。最終回の今回はコロナ後の社会で何が大切になるかを考えてみたい。
おいそれと「新しい生活様式」とはいかない私
コロナ危機のなか、テレワークをはじめとする、ある意味「苦肉の策」として選び取った「手法」が「新しい生活様式」として定着しつつある。
私の場合も、忙しかった日々は過去となり、ここ数カ月は自宅にこもり、やれネット会議だ、ネット講演会だ、さらにネット取材だと「新しい生活様式」に半ば強制的に移行させられている。「アナログ」な私には正直、違和感が絶えない日々である。
ネット会議が終わる。「退出」というボタンを押す。目の前の人はいなくなり、私はそのまま椅子に残される。そして、すぐに次のネット会議が始まる。
極めて効率化された会議システムによって、従来のダラダラした会議は短時間で終わるようになった。それはそれで、よかったかもしれない。だが、私はそこにどうしても窮屈さを感じてしまう。
そこにあるのは「オン」と「オフ」だけ。両者のあわい、「無駄」というか「遊び」が無いからだ。それに、会議終了後の「オフ」もなくなってしまった。これまでは、2時間の会議の後、3時間飲んでいるということもしばしばたっだ。一見「どうでもよい」と思われる時間が、私には重要だったと、今さらながら気づく。
ネットで取材を受ける。PCに映しだされる私は胸から上だけだ。取材の途中「僕が今ズボンをはいていないのをご存知ないでしょう」と冗談を言う。たとえ、それが事実だとしても、何ら支障はない。見えないところはないのと同じだ。
これまで、具体的、肉体的に人と出会ってきた私にとって、こうしたコミュニケーションに慣れるには、相当時間がかかると思う。いや、「慣れない」ということではない。このコミュニケーションに対する「疑念」が払しょくされないのだ。はたして僕は、画面に映し出される人と出会っているのか――。その確信が持てないでいる。

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