「新しい日常」よりも大切な「いのち」を社会の土台に据え直すこと
ポストコロナを生きる③ 忘れていた「死の恐怖」を思い出した私達
奥田知志 NPO法人抱樸理事長、東八幡キリスト教会牧師
「臭い」と出会い
ホームレス支援の現場は「臭い」に満ちていた。長らくお風呂に入れなかった人、「しかぶっている人」(北九州の方言でおもらしを言う)もいた。酒の臭い、汗の臭いが重なり合って「野宿臭」となる。
道を行くと「野宿臭」がする。「いる。近くにおられる」と勘づき、捜すと暗闇にたたずむ人を発見する。ブルーシートのテント小屋の中で亡くなった人の場合、しばらく発見されなかったので腐敗が進む。腐乱した身体からは凄まじい臭いが放たれる。一度それを嗅ぐと、数カ月、いや数年、臭いは記憶となって残り続ける。そうやって私は人と出会い、その出会いに対する「責任」を自らに課してきた。
そんな私にとって、「臭いが無い」ということが、どうも出会った気になれない原因だと思われる。その結果、「出会った責任」という、伴走型支援において最も重要な原則が薄れてしまうのではないか。それが心配でならない。
人、それも臭い付きの人と出会いたい。だが、それはコロナ状況下では許されない。それでもなお、「どうやって出会うか」を模索し続けなければならない。「濃厚接触は過去、これからはネット」とはいかない。
そう。私や抱樸は、おいそれとは「新しい生活様式」にはいけないのだ!
ここまで書いてきたように、人はお金や物だけでは立ち上がれない。ステイホームの時代でも、生きる意味を与えてくれるのは、他者との出会い、それも臭うような出会いなのだと私は思う。これは、古くからある普遍的本質ではないか。

路上生活を強いられる人に、奥田さんらが毎週、配っている手作りのお弁当には、ひとつひとつ「コロナに気をつけてくださいね」と書かれた手紙が添えられている。
あの日々は何だったのか
新型コロナは、「不要不急の外出を控える」という「新しい社会道徳」も生み出した。高速道路や駅の掲示板には連日、この言葉が掲げられた。そして、私達はステイホームに専念した。「うつらない」以上に「うつさない」という他者性の重要さ故に、「いのちを守る」という少々大げさなスローガンも掲げられた。
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