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Jリーグ4カ月ぶり再開 J1最多632出場記録がコロナ時代を照らすか

増島みどり スポーツライター

632試合出場を果たしたガ大阪の遠藤(中央)=金居達朗撮影

22年前、観客5万人のダービーマッチが632試合の起点

 コロナ禍を乗り越え、Jリーグ4カ月ぶりに再開した7月4日、Jリーグで偉大な記録が樹立された。J1最多となる632試合出場が達成された瞬間、まさか記録の起点などとは思いもしなかった22年前の記憶を、たどってみた。

 1998年は、日本代表が初めてW杯(フランス大会)に出場した歴史的な年である。

 このため開幕戦では、W杯候補が8人も揃っていた横浜マリノス対横浜フリューゲルス(3月21日、横浜国際競技場=現・日産スタジアム)の熱きダービーマッチに高い注目が集まり、観客は5万2000人、また記者も多く集結する状態だった。

 マリノスでは日本代表キャプテンの井原正巳(現在柏コーチ)が、フリューゲルスでも同副主将の山口素弘(現在名古屋フットボール統括)と日本をけん引する選手が先発。隆盛期に踏み込んだ日本サッカー界を象徴する「ダービー」だったのではないだろうか。

 試合前、スタメン表が配布されると、記者たちが「思い切ったねぇ」と顔を見合わせた。鹿児島実業を卒業したばかりで、まだスポーツ刈りのような短髪だったルーキー、遠藤保仁が起用されていたからだ。この年フリューゲルスの指揮を執ったカルロス・レシャク(73=スペイン)監督は、名門バルセロナFCの生え抜きで、同クラブで監督も経験してJリーグへ。いくら何でも新人をダービーで先発させなくても、と、スタッフは消極的だったそうだが、バルセロナの下部組織でメッシたちの子供時代に才能を見抜いたという監督は、ためらいなく抜擢する。

 遠藤は、「自分のキャリアでもっとも印象深い試合。準備ができているとかいないとか、年齢、経験も関係ない。延長戦フル出場で勝利と、これぞプロ、という全てが詰まった試合でした」と、いきなり大一番を戦った経験について話す。

最多出場の原点は、全ての上司に‘応える’プレー

 当時、落ち着きはらっていた新人のプレーは印象的で、レシャク監督の起用に「応えよう」とプレーしたという。この姿こそ22年間、キャリアの芯であり続けたといえる。フリューゲルスは98年に経営困難から消滅。横浜マリノスに吸収合併される形となり、遠藤は京都へ。01年にG大阪に移籍し、現在の宮本恒靖監督まで12人の監督(のべ13人)のもとでプレーをしている。

 内訳は日本人、スペイン人、ドイツ人、ブラジル人と監督によってサッカーのスタイルは様々で、攻撃的、守備的、あるいはシステムでも異なるものだ。J1の現在の試合数が年間34試合。632試合を達成するには、毎年全試合出場しても19年を要する計算になる。海外移籍は実現しなかったが、日本サッカーを海外に広めるというミッションで、日本代表でも152試合のAマッチ最多出場数を誇る。代表でも、組織的な守備を重んじたフランス人のトルシエ、初めてA代表に呼び、卓越したキック力を見抜いたジーコはブラジル人らしく個人技を尊重した。運動量を厳しく求めたボスニア・ヘルツェゴビナのオシム、イタリア人のザッケローニ、南アW杯で16強に進出した岡田武史各監督と、監督たちの独自のサッカー界にフィットして来た。

 GKならばイメージできる。しかしMFで、どの監督の指揮下でも、必ずコンスタントに試合に出場し続け最多出場を達成するためには、体のケアや日常生活の心がけだけでは足りない。

 体力の維持以上に、どんな「上司」が出てこようが変わらず仕事ができる。ずば抜けた対応力、調整力がなければ最多出場などたどり着けない。遠藤は、「監督の要求に応えようと考えて来た」と話す。

 「自分が持ち味を発揮して、やりたいと思うサッカーを続けていればいいとは思わないんです。監督がこういうサッカーを、と望むならそこに一番貢献し、機能するプレーを考える。そうやって対応できれば、自分が何かにこだわり過ぎたり、成長を止めてしまうこともないんじゃないか、と。そこに自分の良さをプラスして来たんだと思う」

 鉄人記録を支えるのは、

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