気候変動による干ばつや風水害で凶作が起き、飢饉が発生し、人々の健康状態が悪化して疾病が拡大する。社会の混乱は兵乱を引き起こし、そこに、地震や火山噴火が重なると、歴史の転換期となる。災禍が重なり歴史が動く。
アジアモンスーン地帯のプレート境界上に位置する日本では、諸外国に比べて自然災害が多く、災禍と歴史とに密接な関係があるように見える。本稿では、日本での代表的な災禍と歴史について振り返ってみる。

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天平時代の疫病・地震による仏教の広がりと天平文化の芽生え
奈良時代初期、政変や地震、疫病が相次いだ。729年に起きた長屋王の変で藤原不比等の4人の息子・藤原4子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が実権を握った。その後、734年5月18日に、生駒断層が活動したと考えられる畿内七道を揺るがす地震が起きた。735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行した。総人口の3割前後が死亡したといい、藤原4子も病死した。遣唐使や新羅使が疫病を持ち込んだようだ。
地震や疫病、飢饉に苦しんだ聖武天皇は、仏教を帰依し、国分寺や国分尼寺を各地に作らせた。さらに、総本山として、東大寺と法華寺を建て、743年に大仏建立の詔を出した。これが天平文化につながる。また、疫病で農業生産が滞ったため、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化を図った。
直後の745年6月5日には、養老断層が活動した天平地震が発生した。この場所では、1586年にも天正地震を起こしている。活断層の地震は、活動度が高くても再来間隔は千年程度で、海溝型の地震に比べ遥かに長い。762年6月9日には、糸魚川―静岡構造線断層帯で地震が起きた可能性がある。これ以降、地震が起きていないため、この断層帯での地震発生確率は極めて高く評価されている。
ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺(ついな・おにやらい)に起源があるらしい。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われる。