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東京五輪延期で日本がするべきはIOCへの異議申し立てだ

「商業主義」「国家主義」を脱し「多様性」「共生」「平和」を掲げる五輪をめざして

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

拡大開幕するはずだった日。国立競技場を背に、五輪マークのモニュメントがともされていた=2020年7月24日、東京都新宿区

 コロナ禍がなかったら、東京はいま、五輪で沸きかえっていただろう。日本人選手がメダル、とりわけ金メダルでも獲ろうものなら、メディアは大騒ぎし、新聞は号外をだし、朝夕刊で1面から五輪特設面、社会面などへと大展開する。水一杯のバケツを、逆さにしたようなドシャ降りの報道合戦を繰りひろげていたに違いない。

「五輪報道」と「戦争報道」は瓜二つ

 「メダル争奪報道」によって、国威発揚の五輪ナショナリズムが炸裂する。私(筆者)は1988年ソウル五輪を現地で取材した経験がある。それ以外にも、長らく何らかのかたちで五輪取材にかかわってきた。

 そこから得た知見は、「五輪報道」と「戦争報道」は双子のように瓜(うり)二つだということだ。どういうことか。

 戦争報道のなかに、「戦況報道」という言葉がある。従軍した記者が、あるいは当局発表(昔の日本なら大本営発表)を聞いた記者が、「主要都市の○○を陥落させた」「首都総攻撃の前夜」など戦果を伝えるものだ。

 この「戦況報道」が、「○○が銅メダル」「○○が初の金メダル獲得」などの「メダル争奪報道」と重なってならない。必要な報道であるかもしれないが、これを前面にだして「感情」に訴える報道は、五輪ポピュリズムの悪しき典型ではないか。

 戦争報道なら、戦火の犠牲になる一般市民の状況を伝えたり、軍の違法行為などを監視したりすることが、もっとも求められていることだろう。五輪報道であれば、鍛え抜かれたアスリートの美しさや人間性、その技術の分析を通じて、人類に寄与するスポーツの力を伝えるのが本道ではないか。

 しかし、メダル争奪は報道と歩調を合わせるかたちで盛りあがり、国民を熱狂させていく。アスリートにかかる重圧は凄まじいものだが、表彰台に立って国旗掲揚し、国歌「君が代」を響かせることが「至上命令」となり、国威発揚していく「国家主義」は止まるところを知らない。


筆者

徳山喜雄

徳山喜雄(とくやま・よしお) ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

1958年大阪生まれ、関西大学法学部卒業。84年朝日新聞入社。写真部次長、アエラ・フォト・ディレクター、ジャーナリスト学校主任研究員などを経て、2016年に退社。新聞社時代は、ベルリンの壁崩壊など一連の東欧革命やソ連邦解体、中国、北朝鮮など共産圏の取材が多かった。著書に『新聞の嘘を見抜く』(平凡社)、『「朝日新聞」問題』『安倍官邸と新聞』(いずれも集英社)、『原爆と写真』(御茶の水書房)、共著に『新聞と戦争』(朝日新聞出版)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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