2020年08月04日
戦後75年の夏、被爆の記憶に初めて一緒に向き合ったある家族の1日に同行した。家族内でも難しかった被爆体験の語り合い。当事者には、どんな葛藤があったのか。
7月最後の日曜日、朝、広島市の平和記念公園では、セミの声が文字通り、時雨のように響いていた。雨模様で人の姿はまばら。そんな中、公園内の「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」の正面に、正装姿の家族がいた。
広島市の団体臨時職員、出張(ではり)直子さんは44歳。夫の秀幸さんは40歳。夫妻の長女・ひな実ちゃんは、かわいい盛りの3歳だ。そして、直子さんの母・前田良子さん(81)と伯父の中西巌さん(90)。いずれも広島県内の在住だが、普段は別々暮らしている。一堂に集まった目的は「家族写真を残し、原爆について話す」ことにあった。
「ひな実ちゃん、こっちだよー、そうそう。はい、撮ります」
広島市のフリーカメラマン、堂畝紘子さん(38)がシャッターを切っていく。原爆ドームが背景になるよう移動。目の前を流れる元安川のほとりで、3世代の笑顔が並んだ。良子さん、巌さんの2人は被爆者だ。
5人はこの日、堂畝さんが続けている「『被爆三世の家族写真』撮影・展示プロジェクト」に被写体として参加した。被爆3世が入った家族写真を撮影し、全国で展示する試みだ。2015年からこれまでに約90組が参加している。
プロジェクトでは、撮影の機会に被爆体験を語ることも家族に勧めている。
被爆者の良子さんは当時6歳。原爆が投下された1945年8月6日の朝、家から歩いて15分ほどの幼稚園にいた。爆心地から東に約7キロの地点だ。ドーンという爆音とともに窓ガラスが割れ、教室にはおもちゃ箱などが散乱したという。
幸い、その時にけがはなかった。負傷と言えば、帰宅途中に転んでかすり傷を負ったくらいだ。ただ、翌8月7日、家族で父方の祖母を捜すために爆心地近くに向かい、「入市被爆」した。
中西巌さんは当時15歳、旧制中学の4年生だった。学徒動員の作業に出発するため、倉庫前で待機していた時に被爆。爆心地から2.7キロの場所だった。自身は奇跡的に無傷。ただし、良子さんと同じく翌日、入市被爆し、翌月から半年ほど、発熱や下痢などの症状に苦しんだ。
巌さんは現在、広島平和記念資料館の被爆体験証言者として講話を担当している。コロナ禍前に800回を超えたという。被爆時にいた場所「旧陸軍被服支廠」を被爆建物として保全する活動にも携わっている。
撮影の合間、遊び始めたひな実ちゃんを遠目に見ながら、直子さん・良子さんの母娘と巌さんがベンチに腰を下ろした。原爆の話になった。
良子さんは、幼かったために当時のことをあまり覚えていない。それでも「一番記憶に残っているもの」を問われると、即答した。
「きのこ雲。見えましたからね。その時は(原爆だとは)全然わからなくて、すごくきれいだと」
記憶の鮮明な巌さんは、当日帰宅した時のことから語り始めた。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください