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被爆3世を撮る(1)戦後75年の夏、広島で

益田美樹 フリーライター、ジャーナリスト

 戦後75年の夏、被爆の記憶に初めて一緒に向き合ったある家族の1日に同行した。家族内でも難しかった被爆体験の語り合い。当事者には、どんな葛藤があったのか。

3世代がそろった撮影

 7月最後の日曜日、朝、広島市の平和記念公園では、セミの声が文字通り、時雨のように響いていた。雨模様で人の姿はまばら。そんな中、公園内の「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」の正面に、正装姿の家族がいた。

 広島市の団体臨時職員、出張(ではり)直子さんは44歳。夫の秀幸さんは40歳。夫妻の長女・ひな実ちゃんは、かわいい盛りの3歳だ。そして、直子さんの母・前田良子さん(81)と伯父の中西巌さん(90)。いずれも広島県内の在住だが、普段は別々暮らしている。一堂に集まった目的は「家族写真を残し、原爆について話す」ことにあった。

 「ひな実ちゃん、こっちだよー、そうそう。はい、撮ります」

 広島市のフリーカメラマン、堂畝紘子さん(38)がシャッターを切っていく。原爆ドームが背景になるよう移動。目の前を流れる元安川のほとりで、3世代の笑顔が並んだ。良子さん、巌さんの2人は被爆者だ。

原爆ドームを背に3世代で写真に収まる家族(撮影:益田美樹)

 5人はこの日、堂畝さんが続けている「『被爆三世の家族写真』撮影・展示プロジェクト」に被写体として参加した。被爆3世が入った家族写真を撮影し、全国で展示する試みだ。2015年からこれまでに約90組が参加している。

 プロジェクトでは、撮影の機会に被爆体験を語ることも家族に勧めている。

被爆者の前田良子さん(左)と娘の出張直子さん(撮影:益田美樹)

 被爆者の良子さんは当時6歳。原爆が投下された1945年8月6日の朝、家から歩いて15分ほどの幼稚園にいた。爆心地から東に約7キロの地点だ。ドーンという爆音とともに窓ガラスが割れ、教室にはおもちゃ箱などが散乱したという。

 幸い、その時にけがはなかった。負傷と言えば、帰宅途中に転んでかすり傷を負ったくらいだ。ただ、翌8月7日、家族で父方の祖母を捜すために爆心地近くに向かい、「入市被爆」した。

 中西巌さんは当時15歳、旧制中学の4年生だった。学徒動員の作業に出発するため、倉庫前で待機していた時に被爆。爆心地から2.7キロの場所だった。自身は奇跡的に無傷。ただし、良子さんと同じく翌日、入市被爆し、翌月から半年ほど、発熱や下痢などの症状に苦しんだ。

被爆者の中西巌さん。出張直子さんの伯父(撮影:益田美樹)

 巌さんは現在、広島平和記念資料館の被爆体験証言者として講話を担当している。コロナ禍前に800回を超えたという。被爆時にいた場所「旧陸軍被服支廠」を被爆建物として保全する活動にも携わっている。

母、家族に初めて体験を語る

 撮影の合間、遊び始めたひな実ちゃんを遠目に見ながら、直子さん・良子さんの母娘と巌さんがベンチに腰を下ろした。原爆の話になった。

 良子さんは、幼かったために当時のことをあまり覚えていない。それでも「一番記憶に残っているもの」を問われると、即答した。

 「きのこ雲。見えましたからね。その時は(原爆だとは)全然わからなくて、すごくきれいだと」

 記憶の鮮明な巌さんは、当日帰宅した時のことから語り始めた。

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