2020年08月05日
被爆3世の家族写真を撮って展示するプロジェクト。前回記事『被爆3世を撮る(1)戦後75年の夏、広島で)だ。この5年間で約90組の家族が参加した。手探りで始めた活動が次第に広がってきた理由は、どこにあるのだろうか。堂畝さんに密着し、撮影を通して見えてきた「3世の役割」を考えた。
東京都港区の汐留メディアタワー。その展示スペース「ギャラリーウオーク」で、7月4日から「生きて、繋いで ―被爆三世の家族写真―」展覧が開かれている。堂畝さんの写真展だ。
展示作品はプロジェクトで撮りためた作品であり、すべてに被爆者の孫世代、つまり被爆3世が写っている。
原爆ドームを背景に、数世代が大勢集まった笑顔の写真。祖父と孫娘が2人でベンチに腰掛けている写真。黒い額縁に入れた祖母の写真を手に、若い女性がまっすぐな視線を向けてくる写真。何人かが真剣な表情で話し込んでいる写真もある。
それぞれのパネルには、作文のようなキャプションが添えてある。例えば、ベンチに座る祖父と孫娘の写真はこんな感じだ。
私のおじいちゃんは、昭和19年うまれで、原爆が落ちた時は、1才5ヶ月の赤ちゃんでした。だから、おじいちゃん本人は、その時のことを全く覚えていませんが、まわりの人から聞いたことを教えてくれました。(中略)原爆の後、黒い雨が降っていて、おじいちゃんはそのために被爆しています。原爆の後、近所の池のこいが死んで、近所の人たちと食べたそうですが、「今、思えば、黒い雨のせいじゃろう」と、おじいちゃんは言っていました。(家の近くの)伴小は窓が割れたり、市内から風に乗って紙のような軽いものがとんできたりしたそうです。
これを書いたのは「被爆三世 11歳 女性」。撮影の場所と年月は「広島市中区 広島平和記念資料館/2019年5月」とある。堂畝さんが手掛けた約90組の一つだ。
堂畝さんのこの活動は、2015年1月に始まった。その後、同じ世代の賛同者が増え、現在は「被爆三世 これからの私たちはproject」として運営している。撮影した写真も、全国で展示を受け入れられるようになった。
撮影時に大事にしているのは「被爆の体験を家族で話す機会にしませんか」という被写体家族への声掛けだ。実は、家族間で戦争の体験を語り合うことは、案外、難しい。前線へ出向いた元兵士たちの場合、現地で相当に悲惨な目に遭ったのか、口にするのも避けたがるほどの経験をしたのか、家族にも体験の真実を語らなかったケースは少なくない。日本にいて、原爆や空襲に直面した人たちにも「思い出すのも嫌」という人々は相当数いる。
堂畝さんは言う。
「私たちの世代が家族の被爆体験を『わがこと』にする、そのきっかけをどうにか作れないかと思って。作品のキャプションを2世、3世に書いてもらうのもそのためです。被爆者の祖父母を持つ私たちは、実体験を直接聞くことができる最後の世代ですから」
実は、堂畝さん自身も被爆3世だ。
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