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「観光資源化」するアイヌ民族の歴史に、なぜ歯がゆさを感じるのか

「民族共生象徴空間」開館から1カ月、私たちが突きつけられていること

田中駿介 東京大学大学院総合文化研究科 国際社会科学専攻

北海道を挙げて「宣伝ムード」

ウポポイの開業を知らせる道路情報板=2020年7月26日、北海道大樹町、筆者提供ウポポイの開業を知らせる道路情報板=2020年7月26日、北海道大樹町、筆者提供

 北海道白老町に国立アイヌ民族博物館と共に「民族共生象徴空間(ウポポイ)」が開館してから、今月11日で1カ月を迎えた。

 筆者は「ウポポイ」が北海道内で過剰に宣伝されていることに、驚きを禁じ得なかった。北海道へ向かう飛行機の側面に「ウポポイ開業」のシールが貼られていたのだ。それだけではない。通常は、交通情報を案内するはずの国道や高速道路の看板にも「ウポポイ誕生」という文言が踊っていた。しかもウポポイが位置する白老町から遠く離れた道東地区ですら、である。

 7月下旬、実際に筆者も訪問してみた。筆者が訪問した際、PRキャラクター(いわゆる「ゆるキャラ」)の「トゥレッポん」との交流イベントや、アイヌ式伝統芸能上演などが行われていた。また、アイヌ式住居の再現施設の見学も行った。また国立アイヌ民族博物館では、アイヌ文化のほか、差別の歴史を含むアイヌの苦難な歴史が展示されていた。

 とはいえ、歯がゆさを禁じ得なかった。なぜなら、アイヌの歴史を単なる「観光資源」として消費しているように思えてならなかったからである。「歯がゆさ」を感じるに至った自らの経験にも触れながら、アイヌの人々に日本人と日本政府が何をしてきた/いるのかについて考察していきたい。

ウポポイの一角で、アイヌ民族の衣装を着て伝統芸能を披露する女性たち=筆者提供ウポポイの一角で、アイヌ民族の衣装を着て伝統芸能を披露する女性たち=筆者提供

ウポポイのPRキャラクター「トゥレッポん」との交流イベント=筆者提供ウポポイのPRキャラクター「トゥレッポん」との交流イベント=筆者提供

「旧土人児童教育規定」校の跡地で

 筆者は、北海道旭川市にある北門中学校の出身である。

 当該地区は、「近文(ちかぶみ)アイヌ」が多く住んでいる地区として知られている。近文とはアイヌ語の「チカプニ」(鳥がいるところ)に由来する地名で、旭川市の西側に位置する。その近文地区に建てられた上川第五尋常小学校(その後、豊栄小学校と改名される)の跡地に設置されたのが北門中学校である。

 上川第五尋常小学校は、アイヌのみを分離し通学させる「旧土人児童教育規定」に伴い設置された学校だった。

 同地は、『アイヌ神謡集』の編訳者の知里幸恵の出身地であり、筆者自身「知里幸恵生誕祭」にも生徒会長として参加した経験がある。アイヌの祈りの儀式「カムイノミ」を執り行ったほか、「川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館」の館長の講話も聴いた記憶がある。また知里幸恵に黙とうを捧げたほか、彼女の代表的著作である『アイヌ神謡集』の一部(「銀の滴降る降るまわりに」)を合唱した。

北門中学校内の「郷土資料室」に展示されている写真=2018年1月、北海道旭川市、筆者提供北門中学校内の「郷土資料室」に展示されている写真=2018年1月、北海道旭川市、筆者提供

 余談だが、同書は岩波書店から刊行されているが、なぜか「外国文学」の扱い=赤になっている。一方で沖縄最古の歌集とされる『おもろさうし』が日本文学の扱い=黄色になっていることに鑑みると、植民地主義の歴史に敏感でなければならないはずの出版界ですら琉球・アイヌ文化をいかにぞんざいに扱ってきたのかが伺える。

 本題に戻ろう。「旧土人児童教育規定」では、どのような教育が行われていたのだろうか。新谷行『アイヌ民族抵抗史』によれば、平取町の「旧土人学校」で教育を受けた貝沢正は、以下のように回想していたという。

 明治三十二年、『旧土人保護法』が制定され、旧土人学校となり、『旧土人児童教育規程』によって教育されたのが私達だった。六十人余の学童に老先生が一人。六学年の複式で大半は自習、始業も終業も先生の配合だけで一定の時間はない。天皇の写真に最敬礼することや教育勅語を中心とし、日本人がいかに優れた民族であるかをシサムの先生によってくり返しくり返し、たたき込まれた(注1)

 教育現場では「日本人」と「旧土人」は徹底的に分離され(アパルトヘイト=人種隔離政策である!)、「旧土人」に対しては皇民化教育を押し付けるかわりに、十分な学修環境を認めなかったのである。これを「差別」と呼ばずしていかに形容できるのだろうか。

近文アイヌの苦悩と日本の教科書教育

 1877年に明治政府は、アイヌ民族の居住地をすべて官有地とした。1899年には「北海道旧土人保護法」が制定され、一戸につき1万5千坪を「給与地」として下付した。「給与地」は農地に適さなかったり、第2次世界大戦後の「農地解放」で安く買収されたりしたという(注2)

 しかし官憲が、近文アイヌに対して行った措置は、とくに差別的なものだったのである。「旧土人保護法」制定とほぼ時を同じくして、文字を読めない人が多かった近文アイヌに、土地の「交換」をさせる署名を書かせたのであった。比較的肥沃な近文の土地と、気候的に農業に適さない天塩(てしお)の原野を交換させるというもので、交換というより詐取的な「取り上げ」という実態のものだった。

 結局、天川恵三郎らによる返還要求運動が奏功したが(第1次近文アイヌ給与地問題)、その後も「給与地」問題は再燃する。たとえば、1934年に制定された「旭川市旧土人保護地処分法」を根拠として「給与」された土地は、1戸あたり3千坪にすぎなかった(第3次近文アイヌ給与地問題)。これは「旧土人保護法」の規定すら下回るものであったという。

 「給与地」制定にともない「強制移住」をさせようとした事例は、近文アイヌに限らない 。たとえば、樺太千島交換条約にともない樺太(現在のサハリン)を追われたアイヌは(樺太から地理的に近く、全員一致で希望したとされる)宗谷に移住した。その後、開拓使の黒田清隆長官は石狩に移住を指示したが、樺太アイヌは石狩に移住するより樺太に戻りたいと希望した。しかし、黒田は彼らを樺太に近い宗谷に置いておくと、脱走する恐れがあり、そうすると「国体」に関係するとの理由で、鉄砲を持った警察官によって彼らを小樽から江別にかけての領域に強制的に移住させたとされる(注3)

 しかし日本の教科書教育では、こうした問題を十分に教えてこなかった。それだけではない。「(旧土人保護法の趣旨を)生徒が誤解するおそれのある表現」と検定意見が付き、土地を「取り上げた」から「与えた」へと記述変更をする教科書もあった(注4)。しかもこれは「つくる会」や「育鵬社」といった、いわゆる右派系の教科書の話ではない。同記事によると、育鵬社はそもそも「旧土人保護法」に関する記述が一切ないのだという。

 私たちが「日本史」を語るとき、「日本」のなかにアイヌは入っているのか。今もなお、私たちは教育の名のもとに、「単一民族神話」を子どもたちに吹聴しているのではないか。改めて問わねばならない。

「差し替えられた」シャクシャイン像から考える

シャクシャイン像(旧像)の前の祭壇に礼拝する法要祭=2017年9月23日、北海道新ひだか町シャクシャイン像(旧像)の前の祭壇に礼拝する法要祭=2017年9月23日、北海道新ひだか町
新しいシャクシャイン像の前で披露されたアイヌ民族の古式舞踊=2018年9月23日、北海道新ひだか町新しいシャクシャイン像の前で披露されたアイヌ民族の古式舞踊=2018年9月23日、北海道新ひだか町

 北海道新ひだか町静内の真歌公園にある、アイヌの英雄シャクシャイン像。空に向けて杖を指し伸ばしている勇猛果敢な姿で知られた像が、内省的な像に「差し替えられた」のは、今から2年ほど前

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