8.16公開!富山市議会の不正を暴いたドキュメンタリー映画監督の秘めた思い
2020年08月15日
先日、メディア各社の取材を受けていた際、ある女性ライターがつぶやいた一言がひっかかっている。
「記者会見って事前に質問を渡しておいて、台本を読み上げるのが普通なのに、この映画の会見はすべてガチンコだから驚きました」
絶句した。
記者会見は本来、記者が取材対象者と向き合う真剣勝負の場だ。ガチンコが普通で、質問者と答弁者に台本がある方が異常だ。すぐに「認識が間違っている」と伝えた。
彼女は安倍首相や菅官房長官の記者会見を想起したそうだ。異常な状況に長く慣らされると、市民の中で異常が正常へと変わっていく。しかも、無自覚なままに……
その怖さを、温和なライターの何気ない一言によって突き付けられた。
富山市議会で起きた議員14人の辞職ドミノとその後4年間を描いたドキュメンタリー映画「はりぼて」を制作した。8月16日から全国で順次公開される。
この映画は、2016年に制作した番組「はりぼて~腐敗議会と記者たちの攻防~」の続編にあたる。当時、自民党1強体制の富山市議会では、政務活動費の不正取得が横行。国内最小規模の民放局、チューリップテレビの記者たちがその不正を追及し、議会と当局の「はりぼて」を浮き彫りにした。
あれから4年。市議会には「日本一厳しい」政務活動費のルールが導入された。「議会改革の成果だ」と胸を張る議員たち。だが、4年前と同様の不正が発覚しても、毅然として、誰も職を辞さなくなった。
映画が活写するのは、議会と当局の姿だけではない。それらを許し、受け入れてきた市民とメディアを含む4年間の実相。ひいては、この国の縮図だ。
こんな説明をすると、硬派なドキュメンタリーをイメージする人が多いかもしれない。実はコメディーとして作った映画だ。
笑い7割、シリアス3割。老若男女問わず作品の世界観に入り込めるよう、エンターテインメントの要素をふんだんに盛り込んだ。
調査報道とエンタメの融合。ナンセンスとも思える構成にしたのは、記者と権力側のやりとりが純粋に面白いからだ。記者会見とぶら下がり取材が舞台のガチンコ勝負。そこに予定調和など入り込む余地はなかった。
記者の追及をのらりくらりかわそうとする議員たち。すっとぼけてみたり、すごんでみたり、妙に優しくなってみたり。時に、年齢が親子ほど離れた議員と記者が対峙する。
忍法七変化を操るかのごときセンセイに対し、記者は淡々と質問を重ね、詰めていく。強情なセンセイは気づいたら忍法など捨てて、自分の子には恥ずかしくて言えないような抗弁まで繰り出し、言い逃れを図る。その攻防をカメラはじっと見つめている。残酷なまでに本質が映し出される。
はりぼてだ。
ただ、不正をした議員や情報漏洩に絡んだ職員を単純な悪者としては描きたくなかった。いや、描けなかった。彼らの言い逃れを見ていると、どこか憎めないところがあるのだ。
実際に取材をしても画面を通しても感じる、彼らの人間臭さと弱さ。血税の着服という、あってはならないことをしているのは確かだ。しかし、憎みきれない関係性のなかで彼らを取材してきたことを含め、腐敗を許してきた責任が自分たちメディアにもあるという視点ははずせなかった。
要は複雑なのだ。
記者は聖人君主やヒーローではないし、誰にも言えない闇を抱えていたりもする。不正をした議員だって、家庭や地域では気のよい誠実なおじさんだ。多面性がある。
でも、総じてテレビは、正の側面をそぎ落としては負を強調し、負の側面をそぎ落としては正を強調する。「善悪二元論」で世の問題を切り取ってきた。白黒はっきりさせたり、落としどころを用意したり、複雑な事象を単純な構図に落とし込んできた。見る側にとっては、明快だし、悩まないし、飲み込みやすい。
でも、視聴者は気づいているはずだ。「世の中はもっと複雑だし、そんな単純なものばかりでない」と。
もちろん、いたずらに分かりにくくする必要はない。ただ、真に複雑なものを無理に単純化することで、失われ、歪められてきたものがあるのではないか。危機感が映画の表現につながっている。コメディーにした理由はそこにある。
巷に溢れる刹那的に消費される笑いではなく、見る人の心にじわじわ突き刺さり、憤っていく。追い求めた笑いだ。
議員や当局側を「悪」、記者を「善」として描けば、見た人は溜飲を下げやすいだろう。でも違う。表層ではなく深いところまで見て、感じて、考えてほしい。言葉で簡単に表現できないから、映像で表現する価値がある。
映画のもとになった番組には、「腐敗議会と記者たちの攻防」というサブタイトルがあった。当時、「はりぼて」の矛先は議会と当局だった。4年が経ちサブタイトルをはずした。市民とメディアにも矛先を向けたのだ。
議会の腐敗を招いた一因に、議員と市民の相関関係があると考えている。
長年、地方議員は本来の「市民代表」ではなく「地域代表」として役割を担ってきた。道路や公園整備に公民館建設、通学路の危険箇所改善など、地域住民の要望を聞いては当局に投げかけて実現させる。いわゆる御用聞きだ。
それ自体何の問題もない。地域の声を政策提案につなげるのは議員の大切な仕事だ。
ただ、そこには市全体を俯瞰するという重要な視点が欠けている。極論を言うと、ある地域にとって不都合なことでも市全体として価値ある政策ならば、議員は積極的に提案すべきだし、地域住民も支持すべきだ。
でも、実際はそうなっていない。議員は地域の顔色を窺うだけの御用聞きに徹し、市民もそうした議員を求める。自分たちの地域だけ恵まれればよい。偏狭な発想に議員も市民もからめとられている。
いびつな相関関係の帰結が、不正を認めても辞めない議員であり、不正議員を簡単に許してしまう市民だ。議員が辞めないのは、不正をしても地域住民が支持してくれるから。市民が許すのは、不正をしても地域に貢献してくれる議員だから。そんな屁理屈によって、戦後日本の民主主義が支えられてきたのだとすれば……悲喜劇だ。
そして今、何が起きているのか。
75年の歳月を経て地域に深く根をはった歪んだ民主主義。映画でも描いたこの「はりぼて」に、市民とメディアはもう無関心でいられないはずだ。
奇しくもコロナ禍の政権迷走だ。歪んだ民主主義に慣らされた先に何が待っていたかを多くの国民が体感した。市民の無関心はさらなる腐敗を生む。メディアの責任は重い。
映画「はりぼて」の製作はチューリップテレビだが、監督の私は今、他県の放送局に籍を置いている。会社を去る決意をしたのち映画の製作が始まり、完成を見届けて退職した。裏切り者だ。業界の大先輩からは苦言を呈された。
「お前は移籍したからいいかもしれない。でも、残った人間を守るために違う表現を選ぶべきではなかったのか」
返す言葉がなかった。でも、賛否を呼ぶことを承知で選んだ表現だ。あらゆる評価を逃げずに受け止める。それが、公開の実現に奔走したスタッフと公開を認めてくれたチューリップテレビに対する責務だと思う。
作品は調査報道をベースにしているが、権力追及型のドキュメンタリーにありがちな成果を誇示するものにはしたくなかった。おのずと自分たちにも矛先を向けた。
4年を経ても本質的に変わらない議会と、無関心であり続ける市民。それらを前に味わった無力感。組織ジャーナリズムにおける矛盾や葛藤。これまでテレビが忌避してきた要素を入れ込んだ。私が仲間に退職を告げるシーンもはずさなかった。
高まるメディア不信の根源は、組織に守られた記者たちが安全地帯だけで取材をしていることにあるのではないか。リスクを取らず火の粉をかぶらない。一般企業なら褒められた処世術かもしれない。
だが、記者は社会的使命を負った報道機関に属する。社内外の権力の顔色ばかり窺い、忖度し、聞くべきことを聞かない。そして、元来ガチンコの会見がいつしか予定調和になり、記者も市民も慣らされていく。
地方と中央では記者が受けるプレッシャーは質量ともに比べものにならないと思う。一筋縄でいかないのも想像できる。かといって、使命を放棄する理由にはならない。市民は見ている。見極めようとしている。市民目線の監視者なのか。本物のメディアなのか。
私たちは覚悟を示さねばならなかった。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください