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かつての大根の名所、東京・練馬の農業ルネサンス

武田徹 評論家

 筆者は大学院に進学するまで東京都23区のひとつ練馬区で暮らしていた。間近な記憶は色褪せやすく、子供の頃の記憶は不思議なほど鮮やかに残る。その法則は筆者にも該当し、主に1960〜70年のこの地元の風景を今でもよく思い出す。

 自転車で走り回っていた行動範囲の中に、空き地がたくさんあった。

 ここまで空き地が豊富なのは東京の中でも珍しいらしい――。そう気づいたのは高校進学後だった。都立高が学校群制度を採用していた時期だったため我が高校は練馬、中野、杉並の3区から生徒を集めていた。

 級友と話していると、どうも見てきた景色が違う。他区の友人が幼い頃に遊んだのは公園だったようだが、筆者をはじめ練馬の子らは空き地の原っぱの話をした。漫画「ドラえもん」に出てくる、土管が置いてある原っぱそのものである。練馬区では農地宅地化の遅れを取り戻すべく、筆者の少年時代には宅地の造成が急ピッチで進んでいた。区画整理が進んで新しく道が造られていたが、宅地がまだ分譲されていない。そんな過渡期に、子供が三角ベースをしたりするのに格好の空き地ができていた。

 そんな造成地は何を覆い隠してしまったのだろう。

 空き地の下に広がっていた農地の歴史は元禄9(1696)年に玉川上水の支流として千川上水を開いたときに始まるとされている。千川上水は白山(小石川)御殿(徳川綱吉の別荘)や湯島聖堂への給水を当初の目的としていたが、周辺住民の要望によって灌漑用水に使用されることになった。ただ、あたりに広がっていた関東ローム層の土は保水に不向きで、練馬は田圃より畑が多い場所となった。

 その畑で作られていた代表的作物が大根である。大根の歴史は練馬の農業の歴史よりもはるかに古い。なにしろ日本史における初出は古事記から、仁徳天皇が自分のもとを去った磐之媛(いわのひめ)皇后に送った恋歌にその名が出てくる。

つぎなふ 山背女(やましろめ)の 木鍬(こくは)持ち 打ちし大根(おほね) 根白(ねじろ)の白腕(しろただむき) 播かずけばこそ 知らずとも言はめ

 こうして「おほね」と呼ばれていた大根は主に京で作られ、平安時代までは貴族の食べ物であった。それが徐々に庶民も口にできる食材になり、徳川吉宗の命で本草学者の丹羽正伯がまとめた『諸国産物帳』でも大根は数多く取り上げられているという(竹下大学『日本の品種はすごい――うまい植物をめぐる物語』中公新書)。

なぜ練馬は大根で知られるようになったか拡大なぜ練馬は大根で知られるようになったのか

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筆者

武田徹

武田徹(たけだ・とおる) 評論家

評論家。1958年生まれ。国際基督教大大学院比較文化専攻博士課程修了。ジャーナリストとして活動し、東大先端科学技術研究センター特任教授、恵泉女学園大人文学部教授を経て、17年4月から専修大文学部ジャーナリズム学科教授。専門はメディア社会論、共同体論、産業社会論。著書に『偽満州国論』、『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞)、『「核」論――鉄腕アトムと原発事故のあいだ』『戦争報道』、『NHK問題』など。

 

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