2020年08月31日
筆者は大学院に進学するまで東京都23区のひとつ練馬区で暮らしていた。間近な記憶は色褪せやすく、子供の頃の記憶は不思議なほど鮮やかに残る。その法則は筆者にも該当し、主に1960〜70年のこの地元の風景を今でもよく思い出す。
自転車で走り回っていた行動範囲の中に、空き地がたくさんあった。
ここまで空き地が豊富なのは東京の中でも珍しいらしい――。そう気づいたのは高校進学後だった。都立高が学校群制度を採用していた時期だったため我が高校は練馬、中野、杉並の3区から生徒を集めていた。
級友と話していると、どうも見てきた景色が違う。他区の友人が幼い頃に遊んだのは公園だったようだが、筆者をはじめ練馬の子らは空き地の原っぱの話をした。漫画「ドラえもん」に出てくる、土管が置いてある原っぱそのものである。練馬区では農地宅地化の遅れを取り戻すべく、筆者の少年時代には宅地の造成が急ピッチで進んでいた。区画整理が進んで新しく道が造られていたが、宅地がまだ分譲されていない。そんな過渡期に、子供が三角ベースをしたりするのに格好の空き地ができていた。
そんな造成地は何を覆い隠してしまったのだろう。
空き地の下に広がっていた農地の歴史は元禄9(1696)年に玉川上水の支流として千川上水を開いたときに始まるとされている。千川上水は白山(小石川)御殿(徳川綱吉の別荘)や湯島聖堂への給水を当初の目的としていたが、周辺住民の要望によって灌漑用水に使用されることになった。ただ、あたりに広がっていた関東ローム層の土は保水に不向きで、練馬は田圃より畑が多い場所となった。
その畑で作られていた代表的作物が大根である。大根の歴史は練馬の農業の歴史よりもはるかに古い。なにしろ日本史における初出は古事記から、仁徳天皇が自分のもとを去った磐之媛(いわのひめ)皇后に送った恋歌にその名が出てくる。
つぎなふ 山背女(やましろめ)の 木鍬(こくは)持ち 打ちし大根(おほね) 根白(ねじろ)の白腕(しろただむき) 播かずけばこそ 知らずとも言はめ
こうして「おほね」と呼ばれていた大根は主に京で作られ、平安時代までは貴族の食べ物であった。それが徐々に庶民も口にできる食材になり、徳川吉宗の命で本草学者の丹羽正伯がまとめた『諸国産物帳』でも大根は数多く取り上げられているという(竹下大学『日本の品種はすごい――うまい植物をめぐる物語』中公新書)。
そんな大根がなぜ練馬の名を冠するようになったか。一説によると、きっかけは五代将軍綱吉の病気だったという。まだ上野館林藩主で松平右馬頭と名乗っていた頃、脚気を患った綱吉は陰陽師に相談したところ、「江戸城西北の“馬”の字がつく地名の場所で養生するように」と告げられた。そこで綱吉は下練馬に御殿を建てて移り住む。その地で綱吉は尾張名産の大根の種を取り寄せ、作らせたという。尾張では奈良時代の後期から大根が多く作られていたのだ。
方領大根、宮重大根と呼ばれた尾張の大根が練馬に持ち込まれ、土地の地大根と交雑して1メートルと大きく育つ品種となる。火山灰土が深く積もった柔らかい土壌だった練馬で大根はよく育ち、また引き抜きやすかった。これが練馬大根のルーツとなる(大竹道茂『江戸東京野菜の物語――伝統野菜でまちおこし』平凡社新書)。
元禄には青物市場が神田に設けられ、幕府への上納品を扱う青物役所も設けられたが、大根に関しては練馬産と指定されていたという(練馬区教育委員会社会教育課郷土資料室編『練馬大根』)。元禄の『本朝食鑑』や亨保の『食物知新』にも練馬大根の紹介がある。この頃には地域のブランド野菜となっていたのだ。
では、なぜ綱吉が大根栽培を求めたのか。沢庵がおそらく関係している。
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