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「マスク着用」が映し出す「大学教育の敗北」

半田智久 お茶の水女子大学教学IR等センター教授

道徳の時間の延長

 公共の場に出ると、この半年「マスク着用のご協力」である。銀行やデパートでは着けていないと恐ろしい形相をしたマスクマンに取り込まれ入店を阻止される。

 僕はマスクをしたことがないからたいへん不便である。たぶん僕はかなりお人好しで、誰かから協力を依頼されると断れないたちである。またたぶん人並み以上に神経質で、たとえば学校や病院にいくと、しばしば入るのにスリッパに履き替えさせられるがこれがとてもできない。だから自分用のを持参する。

 そんな僕がこの騒ぎではマスクを着けていない。

 着けない理由はごくシンプルである。そのシンプルすぎるご協力の表現とシンプルすぎる人々の対応が、申し訳ないが僕にはどうみても漫画にしかみえない。だからとても真面目にご一緒する気になれないのだ。

拡大StreetVJ/Shutterstock.com

 僕にとってマスクといえば、第一にはデストロイヤーやマスカラスのそれなのだが、まさかそのような着用が求められているわけではあるまい。だが、その他のマスクであれば銀行でもデパートでも、最大のお笑いは皆で大笑いしにいく狭い演芸場でさえも入れる。通気性にすぐれたファッショナブルなそれをつけて、一万分の数ミリメートルといわれる今般騒ぎのウイルスはスルーするという規格が明記されているそれでも、着けていれば協力になる。まるでいかさま裁縫師と裸の王様の話のようである。

 成分表示や賞味期限のごとくそんなに細かなことにはこだわらない、のかもしれないが、今般の相手はいうまでもなく細かすぎる。ウイルスからすればザルも同然だが、それでもそれが入った飛沫はマスクで捕捉されるという。それで了解されるところが危うい。

 原発やオレオレと同じでここで思考が停止すれば、単にことばのうえで解しているだけで、現実の話に及ばない。だが、僕らはその現実に暮らしている。現実は長時間にわたりそのマスクを着用し、当のウイルスをはじめ、空中に浮遊するそれらを集塵するかのように捕捉し、それを口や鼻に密着もさせつづける。仮に3時間も着用すればその間2000回以上も呼吸する。呼気で十分に水分を含むマスクはなお一層の捕捉力を強めていく。

 しかも多くの人はそのマスクをしながらも声が聞こえるようがんばってしゃべる。だから、顔面下部全体で集塵されたさまざまなものは、こしとられるものは出入りし、体内から排出したい異物はたまたま引っかかった微少物質も含め繰り返し再取り込みされる。下痢をしたときに下手に下痢止めを飲むと、その原因を身体に囲い込む状態になりそれが増殖性のものであれば悪化を助けてしまうことになるのと同様の事態が想像できる。当のものにとってこれほどの甘やかし装具はない。

 むろんそのようなことは百も承知だ。だが何もしないよりはましでしょうといった反応もあろう。つまりみなし協力、若者言葉でいえば、なんちゃってマスクなのかもしれない。「子どもでも着けているのに、なんであんたはマスクしないんだ」といってスーパーマーケットでつきまとってきたおじさんマスクマンがいいたかったのはそういうことなのだろう。それが今のモラルだエチケットだ、という。道徳の時間の延長である。

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筆者

半田智久

半田智久(はんだ・もとひさ) お茶の水女子大学教学IR等センター教授

1957 年、東京生まれ。東京大学大学院人文科学研究科心理学専攻博士課程満期退学後、教育研究職としては信州大学、宮城大学、静岡大学を経て現在、お茶の水女子大学教学IR等センター教授。著書に『GPA制度の研究』(大学教育出版)、『構想力と想像力』(ひつじ書房)などがある。