安倍政権のはるか以前からメディアは「敗北」していた
ネットの普及で「取材プロセスの見える化」が進み、政権とメディアの関係が露見した
高田昌幸 東京都市大学メディア情報学部教授、ジャーナリスト
ベトナム戦争の時代の「介入と敗北」
高度経済成長の時代になっても、「敗北」はたくさんあった。ただ、戦前と違って「権力監視」を本務とするジャーナリズム精神が日本でも少しずつ拡大し、曲がりなりにも新聞やテレビに定着しようとしていた時期でもある。勢い、「敗北」は権力とメディアとの間に生じた衝突の結果でもあった。
毎日新聞の記者で国際報道に長く従事した大森実氏(故人、1922〜2010年)は外信部長だった1964年、ベトナム内戦の取材チームを作り、自らも北ベトナムに足を踏み入れた。北ベトナムを旧ソ連や中国、南ベトナムを米国が支援するなど、冷戦の代理戦争が火を噴いていた頃である。米国が本格参戦し、「内戦」が本格的なベトナム戦争となる少し前のことだ。
取材は『泥と炎のインドシナ』と題して毎日新聞紙上で1965年1月から38回連載され、大きな反響を呼んだ。大森氏は西側の記者として初めて北ベトナムの首都・ハノイ入りに成功し、詳細な現地ルポも書いている。それまでのベトナム報道は主として米国など「西側」の当局情報に拠っており、現地の悲惨な実相が伝わっているとは言い難かった。一連の報道はその壁を突き破った国際調査報道でもあった。
この報道は米国の理不尽さを指弾する内容でもあったため、米国側は強く反発した。とくに、親日派として知られたライシャワー駐日大使は「記事は事実無根だ」と記者会見で強く抗議した。大森氏の自著『石に書く』『虫に書く』などによると、日米両政府からの圧力に抗しきれなかった毎日新聞側はその後、一連の報道内容を修正する記事を掲載する。社内の空気もガラリと変わり、大森氏らを退社に追い込んでいったという。
・・・
ログインして読む
(残り:約2710文字/本文:約4890文字)