「韓国人にはなり切れない。コスモポリタンとして生きたい」
2020年10月10日
日本社会にはこれまで〝嫌韓〟の風潮が繰り返し噴出してきました。昨年、徴用工問題が浮上したときの韓国叩きは記憶に新しいのではないでしょうか。
今年3月には、さいたま市が朝鮮初中級学校幼稚部にマスクを配布しないと発表し波紋を呼びました。保守派による〝ヘイト街宣〟も度々実施されています。
このような差別が色濃く残る社会で、今なお数多くの韓国籍・朝鮮籍(注1)保持者たちが生活しています。さらに日本国籍を取得して帰化した人々やそうした人たちを親に持つ人を含めるとさらに多くの在日コリアンが日本で生活していることになります。
彼ら彼女らは日本でどのような差別に直面し、またどのような葛藤を抱えて生きているのでしょうか。実際に話を聞いてみることにしました。
最初に話を聞いたのは、原田裕子さん(仮名)。20代後半の原田さんは、祖父が朝鮮半島から渡日した在日三世です。大学卒業まで日本で過ごし、現在はイギリスで生活しています。
(注1)朝鮮籍:1952年、サンフランシスコ講和条約の発効に際して、旧植民地出身者は日本国籍を喪失し、朝鮮半島出身者は「朝鮮籍」となった。その後、年々韓国籍や日本国籍を取得する人が増えているが、様々な理由から「朝鮮籍」のままの人も少なくない。なお朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国籍を保持していることとは異なる
日本社会で生まれた三世の場合、自らが在日コリアンであることを知らずに育つことも少なくありません。原田さんが、自身のルーツについて自覚するようになったのは、小学生のときだったといいます。
「私が小学生のとき、韓国人のお爺ちゃんが亡くなりました。そこで初めて自分のルーツに気が付いたんです。当時は、ベッキーなどハーフのタレントが持て囃されていたため、〝クォーター〟であることは誇らしいことだと思ったんです。
だから小学校の友だちに『私には韓国の血が入っているんだ』と自慢しました。すると、その友だちのお母さんから自宅に電話が掛かってきて、『悪影響だからうちの子どもと関わらないでください』と言われたんです。そのとき母は『そんなことを人に言ってはいけない』といって怒りました」
友だちの母親からの露骨な差別。それに対して母親からは「自らの出自を隠すように」と言われたといいます。差別や偏見に晒される危険を思えば、当然のことかもしれません。しかし原田さんは、なぜ隠さないといけないのだろうと感じました。
「母は、『日本人の名前と日本の国籍があるんだから、わざわざ在日であることを言わずに、日本人として暮らした方が楽』という考え方でした。でも、私には韓国のエッセンスをポジティブに受け入れたいという気持ちがありました。祖父が韓国人だということを知ったときから、日韓の歴史についてもよく勉強しましたよ。考え方が違うので、大学のときには、母とよく喧嘩になりました」
そもそも、原田さんの祖父が朝鮮半島南部から日本に渡ったのは1930年代後半のこと。16~17歳のときに仕事を求めて日本に来て、福岡の炭鉱で働き始めたといいます。その後、炭鉱での厳しい労働に耐えかね、大阪へ移りました。
終戦後、なぜ朝鮮半島に戻らなかったのかと原田さんが聞いたところ、言葉少なに「帰れなくなっちゃった」とだけ返ってきたそうです。日本で生活の基盤を築いていた祖父にとって、すぐに帰郷することは難しかったのかもしれません。戦後、朝鮮半島が動乱に見舞われたことも
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