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手記・上高地でクマに襲われた私の経験

野生のクマが尊厳をもって生きられる環境を作っていくために

浅山忍

 今年8月、上高地のキャンプ場で女性がクマに襲撃される事件がありました。新聞などでは「東京都内の50代女性」と報じられた被害女性の手記を掲載します。事件後、精神的ショックが残るなかインターネット上で事実に基づかない誹謗中傷を受けることがあったため、本人の意思をふまえ女性はペンネームとします。(編集部)

 8月8日深夜、長野県・上高地の小梨平キャンプ場で、就寝中にクマに襲われ、けがをしました。襲ったクマに恨みはありません。むしろ申し訳なく思います。クマのせいではなく、人間のせいだから。同じことを繰り返さないために、公園管理者・キャンプ場運営者・利用者・報道関係者などに経験を伝え、今後の対策に生かしてもらいたいと願い、報告をまとめました。

色とりどりのテントが張られた昨夏の小梨平キャンプ場の様子=2019年8月4日

 上高地を初めて訪れたのは、約40年前。大学1年で山岳部に入り、夏の涸沢をめざした。以来、上高地は何度も通過したが、小梨平キャンプ場にテントを張ったのは一昨年が初めてで、今年は2度目だった。2泊3日の予定で、中日と最終日にそれぞれ往復4、5時間のコースを歩くつもりでいた。大学山岳部OB会の先輩たちと総勢4人のグループだが、新型コロナウイルス感染症対策として各自別々にキャンプ場に入り、テントも一人ずつ張ることにした。

 私は8月8日昼過ぎに高速バスで上高地に到着し、キャンプ場の受付をすませ、すでに先輩二人がテントを張っていたBエリアの角、道をはさんでトイレにいちばん近い位置にテントを設営(図を参照)。雨よけのテントフライは四隅にペグを打ってしっかり張ったが、風で飛ばされるような場所ではないので、テント本体にはペグを打たなかった。

 午後は屋外のテーブルで先輩二人と歓談。もう一人の先輩は登山中で、当日は不在だった。酒とつまみでおなかがいっぱいになり、自分用に用意した白米のパックとレトルトカレーには手をつけず、先輩が作ってくれたパスタを分けてもらう。ゴミは先輩がすべて引き取ってくれた。18時過ぎにテントに入り、就寝。寝袋に入るには暑かったので、マットの上で寝転ぶ。雨の音で一度、目が覚めたが、ぐっすり眠っていた。

事件発生

 揺れを感じて目を覚ます。なぜ揺れているのかわからない。地震? 考える間もなくテント本体が足元方向に動き出した。テントの下端を何者かが外側からくわえて、強い力で引っ張っている。状況把握で精一杯のなか横たわっていると、途中でスピードが増し、緑のテントに木々の影が流れるように映るのが見えた。このとき初めて引きずられているのだと理解した。このままでは誰にも知られず連れ去られてしまうと思い、一度だけ「助けてください」と叫んだ。

 まもなく引きずる力が止まった。キャンプ場の明かりが届く場所で、テントの布に大きな影が立ち上がるのが見えたように思う。クマの仕業ではないかと思ったが、やはりクマのようだ。その直後、テントが一瞬のうちに引き裂かれ、布が四隅に落ちた。何者かがうめきながら私の黒のスウェットパンツの裾をくわえて引きずり下ろした(足首にけがはない)。そして私の足元に立って腕を振り回した。右膝横に衝撃を受ける。

 そのあと――なぜか静かになった。二本のテントポールが交差するアーチの向こうに夜空が見える。真横は笹やぶだ。10秒ぐらい数えただろうか、周囲は無音のままだ。動いていいのか? まずいのか? 悩みながらも、腹筋を使って体を起こしてから、クマに背を向け、腰を低くして走って逃げた。体を起こしたとき、テディベアのようにだらんと座る、うつむき加減のクマの頭部が暗がりに見えたように思う。耳が大きく愛らしく見えた。立ち上がってすぐ、焦って転んだが、起き上がって再び全力で走った。

 自分がいるのはトイレの裏だとすぐわかったので、トイレの前まで走り、女子トイレに逃げ込んだ。北海道のヒグマは、一度、手にしたものに執着すると本で読んでいたので、ツキノワグマも追いかけてくるかもしれないと思ったからだ。むき出しの足を見ると、右膝の側面に直径8センチぐらいの丸い傷がえぐれるようについていた。トイレのティッシュで傷を抑えたが、出血はあまりない。

 トイレの扉を細く開けて外を見ると、クマはいなかった。それでも一人で歩くのは怖かったので、男子トイレから出てくる人に「クマに襲われたので、仲間のテントまで付き添ってください」と頼み、わずか数メートルの距離をエスコートしてもらった。トイレ前で「クマ監視のためにボランティアで巡回をしている」と名乗る男性とも合流。私の悲鳴を聞いて誰かがキャンプ場の管理事務所に電話をしてくれたそうで、駆けつけたのだという(この男性は環境省経由で小梨平キャンプ場のクマ対策を指導している信州大学農学部の泉山茂之教授だと、あとで知った)。

 私のテントの2軒先にテントを並べて張っていた先輩二人は就寝中だった。「クマに襲われたので起きてください」と呼びかけ、テントに入れてもらい、応急処置のあとズボンを貸してもらう。手渡されたポカリスエットが、とてもありがたかった。時刻は夜中0時ごろ。テントが引きずられ始めてから30分ぐらい過ぎたか、あるいはもっと短い時間だったかもしれない。テントサイトからクマに襲われた現場まで、10数メートルの距離だった。

死んでもおかしくなかった

 キャンプ場の管理事務所の人が救急車を手配してくれ、キャンプ場の車で上高地の診療所まで運んでくれた。このころから体の震えが止まらなくなる。そのとき恐怖を感じていたわけでもないのに不思議だった。傷の痛みはあったが耐えられないほどではなかった。頭は冷静で、医師の質問にもしっかり答えることができた。診療所では医師に「死んでもおかしくなかった。不幸中の幸いだ」と

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