安倍政治の「毒」によって麻痺していった言論を再生することが必要だ
2020年09月20日
2822日におよぶ歴代最長の安倍晋三政権が終幕、新たに菅義偉首相が選ばれ、自民、公明両党による連立内閣が9月16日に発足した。
第2次安倍政権以降、官房長官を務めた菅新首相は安倍政治の「継承と前進」を掲げた。内閣も、麻生太郎副総裁兼財務相ら8人の閣僚を再任、閣僚ポストの横滑りや再入閣組も多く、「安倍亜流内閣」「暫定政権」といったふうに映る。
そもそも安倍政治とはどのようなものだったのか? 一言でいって、それは世の中を敵と味方に峻別(しゅんべつ)する分断対決型の政治である。衆院選、参院選に5連勝したことで得た「数の力」をテコに、安倍政権は対決型の手法を前面に打ち出し、数々の重要法案を強行突破で成立させた。
こうした異論を排除する政治手法は、政治の世界だけではなく国民をも分断し、社会に深い亀裂を生んだ。メディアも例外ではない。政権側の巧みなメディア戦略によって、ジャーナリズムの要諦(ようてい)であるはずの権力監視の機能は切り崩され、分断されたメディアは本来果たすべきつとめを果たせなかった。
菅新政権のもとで同じ轍を踏むことは許されない。菅新政権の発足に際し、安倍政治の「毒」によって麻痺していった言論を再生することが必要だろう。そのために、メディアはどう対応していけばいいかを考えてみたい。
安倍政権の随所でみられた力ずくの政治手法は、大別すれば政策と知人への便宜という二つの側面でおこなわれた。
政策面では、集団的自衛権の行使容認や検察官の定年延長など、本来は憲法や法律の改正が必要なものを、閣議で決めていった。さらに、沖縄県名護市辺野古への米軍新基地建設は地元の強い反対を排し、断行されている。
国の根幹をなすエネルギー・原子力政策においても、東京電力福島第一原発の爆発事故で多くの住民の避難生活がつづくなか、反対を押し切って原発再稼働が進められた。
一方、森友学園への国有地払い下げや加計学園の獣医学部新設、首相主催の「桜を見る会」へのおびただしい数の後援者招待などの疑惑は、「お友だち」優遇という「政治の私物化」の典型だろう。政権の敵と味方を分け、敵を徹底的に攻撃し、見方に便宜を図るという政治姿勢の行き着いた先ともいえる。
自らの考えに近いメディアとそうでないメディアを選別する方法も、構図はまったく同じだ。こうした分断対決型の安倍政治にメディアはなすすべもなく敗北した。そう私は考えている。
もちろん権力によるメディアの敗北はこれまでもあった。ただ、過去と様相が異なるのは、法の秩序をいとも簡単に損なっていく安倍政治による弊害が、政策や国民生活にまで多岐にわたったにもかかわらず、ジャーナリズムがそれをただす機能を発揮しなかったことだ。
これは、為政者が権力を抑制的に行使してきた日本の戦後政治において特異な現象である。このままでいいはずはない。
では、菅首相と内閣、メディアに何をのぞむのか。
まず、菅氏の経歴をたどる。1948年12月6日、新潟県秋ノ宮村(現在の湯沢市)の雪深い山間部のイチゴ農家の長男に生まれた菅氏は、秋田県立湯沢高校を卒業後、「人生を思い切り生きたい」と実家を飛び出して上京する。
町工場や築地市場などで働き、法政大学法学部を卒業後、就職した電気通信設備会社で「世の中を動かしているのは政治だ」と気づき、地盤も看板もないなか政治家を志す。小此木彦三郎元通産相秘書、横浜市議(2期8年)を経て、1996年の衆院選に神奈川2区から立候補し初当選。現在8期。
国会議員となった2000年、当時の森喜朗首相に退陣を求める「加藤の乱」に加わる。06年には党総裁選で安倍氏を支援し、第1次安倍政権で総務相として初入閣した。秋田県出身としては初の首相。派閥に属さず、国会議員に親族をもたない「無派閥・非世襲」議員が自民党から首相になるのは希有のことだ。
まさしく「たたき上げ」の人生であり、並々ならない努力でそれを築き上げたという強烈な自負があるようだ。
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