菅さん。「まずは自分でやってみる」からではないですよ
社会をミスリードしかねない「自助、共助、公序」。必要なのは「社会」を取り戻すこと
奥田知志 NPO法人抱樸理事長、東八幡キリスト教会牧師
菅義偉新首相は、9月16日の就任会見で「私が目指す社会像。それは自助、共助、公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる」と述べた。また、それに先立ち、「自分でできることは基本的には自分でやる、自分ができなくなったら家族とかあるいは地域で協力してもらう、それできなかったら必ず国が守ってくれる。そういう信頼をされる国、そうした国づくりというものを進めていきたい」(9月4日TBS『NEWS23』)とも述べていた。

コロナ禍の困窮者に対して励ましの手紙をお弁当に添える「NPO法人抱樸」提供
「まずは自分で」では「自助」は尊重されない
いうまでもなく「自助」は大事だ。だが、「まずは自分で」は、必ずしも「自助」を大事にすることにはならない。
私は長年、現場で困窮者と向き合ってきたが、「まずは自分で」と国が言ってしまうことは、決して「信頼される国」につながらない。それどころか、「自助」を尊重することにもならない。
菅氏は「自助、共助、公助」と三つのカテゴリーで話したが、最近はさらに一つ加わり、「自助、互助(家族や地域の助け合いを意味し、菅氏の言う共助)、共助(こちらは社会保険制度)、公助(公的扶助)」という4つのカテゴリーで語られることが多い。数年前、厚労省の会議で「知らない間に三つが四つに増えて、公助が一層遠くに離れていった」と発言し、場がしらけたことを思いだす。
「まず自助、自助がダメらなら共助、共助がダメなら公助」という「助の序列化」は、一見わかりやすいが実は「空論」だ。「自助」というダムが決壊する、次に「共助」というダムで受け止める。それが決壊すると最後は「公助」というダムが機能する。生活保護が「最後のセーフティーネット」と呼ばれるのは、そういう意味である。
だが、「最後のセーフティーネット」では遅いのだ。そもそも「公助」が、その前に存在する「自助」や「共助」というダムが「決壊すること」を前提に想定されていること自体が問題なのだ。「ダム決壊論」の弱点は、まさしくそこにある。
本当に「自助」を尊重したいのなら、「自助」と「共助」、特に「公助」が並行的に機能しなければならない。なぜか。理由は実に単純だ。「人は独りでは生きていけない」からだ。それが人間だと私は思う。
「私(自助)」が決壊する前に、「共助」、いや、なによりも「公助」が活用できること。それが、ほんとうの意味で、菅氏が言う「自助」の尊重となる。