菅さん。「まずは自分でやってみる」からではないですよ
社会をミスリードしかねない「自助、共助、公序」。必要なのは「社会」を取り戻すこと
奥田知志 NPO法人抱樸理事長、東八幡キリスト教会牧師
「自助」は個人の主体的な事柄
「自助」が大切なのは、それが「私という個人」に関わる事柄だからだ。「自律(autonomy)」や「自決(self-determination)」という「個人の主体性」こそが「自助」の本質だ。「自助努力」は他人や国から要求されることではなく、極めて「私(わたくし)」の事柄と言える。
「僕が僕の人生に対してがんばる」と言うことは悪いことではない。しかし、国から言われて頑張るのなら、それは「主体的な事柄」なのか。嫌々するのは、「自助」ではあり得ない。主体性や自律性が脆弱だからだ。
憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とする。
すべて国民は、個人として自律的に幸福を追求する権利を持っている。「自助」は、その権利の行使である。だから国はこれを「最大の尊重」をもって臨まねばならない。「尊重」は、「強制」でもなければ「無作為」でもないことは言うまでもない。
また、憲法25条の生存権においては、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と、国の義務を明記している。法律のことはわからないが、支援の現場でこれらの憲法条文を読む限り、「まずは、自分で」と、国家が「他人事」のように言うことはできないと思う。
社会の分断を進めないかと心配
「自助」「共助」と「公助」には質的な違いがある。「自助」も「共助」も要するに「自発的行為」である。「強制」はできない。一方で、「公助」は憲法に明記された「国の義務」に他ならない。義務であるはずの「公助」が、「自助」と「共助」の後、しかも「決壊」後に登場することには、どうしても違和感がぬぐえない。
さらに、国のリーダーが「まずは自分で」と強調することは、社会全体をミスリードする危険も大きい。
「自己責任」が偏重されてきた結果、生活保護世帯や困窮者、ホームレスに対しするバッシングが常態化した。「自己責任を果たすことができない人はダメな人」「他人に迷惑をかけてはいけない」という空気は、
・・・
ログインして読む
(残り:約7217文字/本文:約9182文字)