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海外で活躍するバレエダンサーのさきがけ・深川秀夫が逝った

その振付作品継承への課題

菘あつこ フリージャーナリスト

 現在、多くの日本人バレエダンサーが海外のバレエ団で活躍しているが、そのさきがけ──深川秀夫が9月2日、間質性肺炎で死去した。73歳だった。

 私がバレエ取材を続けているなかで、様々な著名なダンサーや振付家とお話させていただく機会があるが、その中でも深川は特別。踊る才能も作品を創る才能もずば抜けているのに、驚くほど気さく。「深川先生」と呼びかけると「秀夫、の方で呼んでよ!」と言われ、さすがに呼び捨てにはできず、最近数年は「秀夫先生」と呼ばせていただいていた。

 3年前に倒れてからは酸素が離せなくなっていたが、それでも可能な限り作品の指導に向かっていた。そんな闘病中の電話で「菘さん、僕は倒れて一つだけ良いことがあった。僕が倒れても、来年も僕の作品を上演したいと言って来てくれるところがたくさんある。だから、もし僕が死んでも、僕の作品はきっと残って行くだろうと思えて」──その言葉が今も耳に残っている。様々な課題(詳しくは後半に書きたい)はあるが、きちんと残して行くのが残された者の使命だと心から思う。

拡大宮下靖子バレエ団「コッペリア」(2015年11月)より 撮影:岡村昌夫(テス大阪)

ダンサーとして天才、そして振付家としても

 あらためて深川の経歴をたどってみよう。1947年8月23日に名古屋で生まれ、14歳から越智バレエ団(現・越智インターナショナルバレエ)で学んだ。'65年にヴァルナ国際コンクール第4位、'69年の第1回モスクワ国際コンクールでは第2位銀メダル、同時にパリ国際舞踊大学から日本人初のニジンスキー賞も受賞した。ちなみにこの時の1位金メダルは、後にアメリカに亡命して世界のトップスターになったミハイル・バリシニコフだ。

 同年、深川は東ベルリンのコミッシュ・オペラのソリストに。もちろん、まだ、東西ドイツが分断されていて自由に行き来できない時代のこと。このコミッシュ・オペラのフィンランド公演の折、11人ものダンサーが西側に亡命した時には、西側の人間だったことで、手引きをしたのではないかと疑われ、かなり辛い経験をしたと聞く。

拡大撮影:河辺 利晴 協力:宮下靖子バレエ団
 翌年、70年のヴァルナ国際コンクールでは1位なしの2位(実質の最高位)、西独のシュツットガルト・バレエに入団した。当時のシュツットガルトは、このバレエ団を世界トップクラスのカンパニーに引き上げた振付家ジョン・クランコが率いていた。クランコ作品は、今も世界中で上演されているが、そんな〝バレエの神様〟、ジョン・クランコと共に仕事をしたわけだ。45歳の若さでクランコが急死した後、彼の作品を数多くレパートリーとして持っているミュンヘン国立オペラ・バレエ劇場とエトワールとして契約。'80年に日本に帰国するまで活躍した。

 帰国後、ダンサーとして踊ったのはもちろんだが、振付も手掛けるように。その振付作品が独特の魅力に満ちているのが、また凄い。様々なバレエダンサー・振付家を見ていて思う。踊ることで注目された人が、ある程度の年齢になって振付を手掛けることは多いが、大抵、〝ダンサーとして天才〟と言われた人は、振付はまぁまぁか場合によっては酷いもので……、〝振付家として素晴らしい〟と高い評価を受ける人は、ダンサーの時はそんなに目立たなかった……といった例ばかりが頭に浮かぶ。だが、深川は、ダンサーとして凄いのは前述の経歴の通り、そして振付家としても、独特の〝香り〟を漂わせた作品を数多く創り出してきた。

筆者

菘あつこ

菘あつこ(すずな・あつこ) フリージャーナリスト

立命館大学産業社会学部卒業。朝日新聞(大阪本社版)、神戸新聞、バレエ専門誌「SWAN MAGAZINE」などに舞踊評やバレエ・ダンス関連記事を中心に執筆、雑誌に社会・文化に関する記事を掲載。文化庁の各事業(芸術祭・アートマネジメント重点支援事業・国際芸術交流支援事業など)、兵庫県芸術奨励賞、芦屋市文化振興審議会等行政の各委員や講師も歴任。著書に『ココロとカラダに効くバレエ』。

 

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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