メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ハンセン病元患者たちの絵画展「ふるさと、天草に帰る」

生きた証しを後世に伝える

大矢雅弘 ライター

 青空の下、菜の花畑を通って満開の桜を見に行く赤い服の子どもたち。国立ハンセン病療養所「菊池恵楓(けいふう)園」(熊本県合志市)の入所者だった木下今朝義(けさよし)さん(1914~2014)の「遠足」という作品だ。6歳で発症し、1年しか通えなかった小学校の唯一の楽しい思い出を描いた。

木下今朝義「遠足」、1996年=一般社団法人金陽会提供

 描いたのは1996年、82歳の時だ。「感染力が高い」という誤った認識などをもとに、国がハンセン病患者を山奥や離島の療養所に強制隔離する政策を進める根拠として90年近くにわたり存続した「らい予防法」がようやく廃止された年だった。

全国最大の国立療養所・菊池恵楓園

 ハンセン病にかかったというだけで、差別や偏見は患者のみならず家族にも及んだ。それは過去の話ではない。今の時代にも、家族にその病気を患った人がいたと言えない人たちがいることを知っている人はどのくらいいるだろうか。

 全国に13カ所ある国立療養所の中でも一番大きな療養所である菊池恵楓園の入所者らによる絵画クラブ「金陽会」の会員による作品展「ふるさと、天草に帰る」が熊本県天草市の天草市民センターで開かれている。会場に展示された作品の一部を紹介しながら金陽会の歩みをたどる。

 木下さんには「母を偲ぶ」という作品もある。(◆作品の写真に添えられた文章はいずれも一般社団法人「ヒューマンライツふくおか」理事の蔵座(ぞうざ)江美さんによる解説文)

木下今朝義「母を偲ぶ」、1992年=一般社団法人金陽会提供

◆17歳で菊池恵楓園に入所した木下今朝義さんは、99歳で亡くなるまで療養所で過ごされました。母親が亡くなったとき、実家からの連絡はなく、「連絡したら帰ってくると思って心配だったんでしょう」と語っていた木下さんが母親の死を知ったのは、一周忌を迎える頃だったそうです。父親の死も後から知らされたそうで、「ふた親とも知らんずく(知らないまま)」と淡々と口にしていた木下さんが78歳で描いたこの作品は、木下さんが入所する前の記憶なのでしょう。手先が器用だった木下さんお手製の、絵に合わせた同系色の額に大切に飾られていることが、すべてを物語っています。

「生きている限りは絵を描くことしかない」

 金陽会は療養所の看護師が呼びかけて1953年に発足した。多い時は十数人の会員がいたが、今も絵を描き続けているのは天草出身の吉山安彦さん(91)だけになった。吉山さんは17歳から菊池恵楓園で過ごして74年。30代のころは社会復帰をしようと考えて車の免許を取り、就職も試みたが、かなわず、「生きている限りは絵を描くことしかない」と絵画に打ち込んできた。

 吉山さんは金陽会の仲間が独学で学んだ個性的な作品群を保存することに心を砕いてきた。「(入所者が)亡くなった時などに燃やされたら大変だと思った」。よその療養所では、入所者が亡くなると引き取り手がなくて処分される絵が多い

・・・ログインして読む
(残り:約2954文字/本文:約4178文字)