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昔の内閣記者会は今よりはるかにマシだった~官邸権力との暗闘史

高田昌幸 東京都市大学メディア情報学部教授、ジャーナリスト

「内閣記者会」が主語の1面記事

 新聞社・テレビ局のマスコミ界では、記者クラブと権力との間でさまざまな”暗闘”が続いてきた。オフレコ破りも何度か起き、その都度、当局も交えて”しきたりの正常化”に向かう例も少なくない。

 しかし、戦後直後からの記事をみると、総じて昔のほうがまともに映る。読売新聞の「ヨミダス歴史館」と朝日新聞の「聞蔵Ⅱビジュアル」という2つのデータベースを使いながら、メディアと権力の関係を振り返ろう。

 読売新聞の1949年3月29日朝刊の1面コラム「編集手帳」は、日米の政治家は記者への対応や態度が違うとして、「宴会で酒を飲ませることがいままでの日本の政治家の記者に対する常道みたいなものだった」(一部現代カナ遣いに修正、以下同)などと記している。日本の政治記者たちは当時、取材と私事を混同していたのかもしれない。敗戦の混乱期であり、日本の報道は連合国軍総司令部(GHQ)の統制を受けていた時代だ。

 その一方で米国記者も大勢日本に来ており、執筆者も米国式の自由な報道に憧れたのだろう。政治家に対する米国の取材環境を盛んに持ち上げ、日本の政治家にもそれを求めた。しかしながら、その思いはどの程度だったのか。結論は「編集手帳」の末尾に記されている。

 フロリダ海岸で海水浴をしながら新聞記者とオフ・ザ・レコードの放談をする政治家のいる国はうらやましい。

 記事にしない約束で政治家の放談を聞きたいという考えが、当時の報道界にはびこっていたのだろう。そうでなければ、1面で堂々とこんな記事は書けない。

 しかし、そうした底流があったとしても、1950年代から70年代にかけての紙面は時に権力と正面から対峙した。

 例えば、1954年9月25日の読売新聞夕刊1面には「首相、報道使命を無視 記者会声明」という4段見出しの大きな記事が掲載されている。吉田茂首相(当時、故人)が会見を途中で切り上げたことに対する内容だ。リード部分を引用しよう。

 内閣記者会は二十五日の吉田首相との会見で、首相が質問に十分答えず、約束時間の中途にして退席したことは、報道機関の使命を無視し、民主主義を破壊したものとして憤慨し会見後直ちにつぎの声明を発表して弾劾した。

拡大1954年9月25日の読売新聞夕刊1面

 記事には「右声明する。内閣記者会」で終わる声明文も載っている。この記事の主語は「内閣記者会」だ。現在では、なかなか表に出てこない記者会が主語として1面に登場している。

 実は、こうした記事は当時、珍しくなかった。記事数も相当数に上る。1960年5月21日の読売新聞朝刊1面にも「首相に抗議声明 内閣記者会 首相会見拒否で」という2段見出しの記事が載った。安保闘争が激しくなり、岸信介首相(当時、故人)への批判が頂点に達していた時期だ。

 内閣記者会は二十日岸首相に対し記者会見を申し入れたが、首相は記者会提出の質問趣旨は了解できないとしてこれを拒否した。よって同記者会は直ちに首相に対し”今後反省のない限り首相側からの会見申し入れには応じられない”として厳重抗議するとともに、同日夕刻つぎの声明を出した。

 この記事には、「岸首相に対し猛省を促す」で終わる声明の全文も掲載されている。現在の政治記事とは大きく違い、メディア対権力のせめぎ合いがよく見える。

 当時の記者らの回顧録を読むと、今と変わらぬ夜回り取材や懇談があったこともわかる。それでも、報道が国民の側に立って権力者に説明責任を求め、その行動自体を大きな記事とする姿勢は明確だった。今よりも記者の立ち位置がはっきりと見え、取材プロセス可視化も進んでいた。

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筆者

高田昌幸

高田昌幸(たかだ・まさゆき) 東京都市大学メディア情報学部教授、ジャーナリスト

1960年生まれ。ジャーナリスト。東京都市大学メディア情報学部教授(ジャーナリズム論/調査報道論)。北海道新聞記者時代の2004年、北海道警察裏金問題の取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞を受賞。著書・編著に『真実 新聞が警察に跪いた日』『権力VS調査報道』『権力に迫る調査報道』『メディアの罠 権力に加担する新聞・テレビの深層』など。2019年4月より報道倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会の委員を務める。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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