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「陶磁器の島」へ歩を進める「陶石の島」天草

地場産業を生かした新しい観光地づくり

大矢雅弘 ライター

 熊本県天草地域は、有田焼や清水焼など全国の有名な陶磁器に使われる陶石の約8割を占める日本一の陶石産地だということは、あまり知られていない。中国からの安価な製品に押され、全国で窯元が減少するなか、「陶石の島」の天草地域で天草陶石や地元の粘土を原料とした「天草陶磁器」の窯元はここ20年で、8軒から30軒を超えるまでに増えた。天草陶磁器を全国ブランドに育てようという「陶磁器の島」づくりへの注目度は年々高まっている。

「天下無双の上品」天草陶石

天草市在住のボタン作家、井上ゆみさんが天草陶石で作った磁器の「天草ボタン」。抜群の強度と透明感のある白さが特徴で、絵柄は一つひとつ違う。本焼き以外はすべて井上さんによる手作業のため、世界に一つだけのボタンということになる=2020年11月2日、熊本県天草市、筆者撮影

 天草地域は、熊本県の南西部に位置し、天草上島と天草下島、御所浦島などから成る。天草陶石は天草下島の西海岸に脈状に分布する。白さに濁りがなく、焼き物に最適な成分であるのが最大の特徴で、粘土を混ぜなくてもそのまま焼き上げるだけで美しい白磁に生まれ変わる。磁器の原料だけでなく、工業用原材料として送電用の高圧ガイシなど幅広い分野で活用されている。

天草下島の西海岸の天草市と苓北町に産出する天草陶石。年間出荷量は約3万トンで、国内の産出量の約8割を占めている=天草市提供
 約300年以上前に発見されたとされる天草陶石は当初、砥石や硯石として使われていた。しかし、焼き物の原料としても優れていることがわかり、品質の高い陶石として生産されるようになったという。江戸時代の著名な文化人として知られる平賀源内は1771(明和8)年、長崎奉行に提出した建白書「陶器工夫書」で、天草陶石を「天下無双の上品に御座候」と絶賛している。

 天草の窯元の歴史は古く、高浜村(現在の天草市天草町)の庄屋であった上田家の6代目、上田伝五右衛門武弼(でんごえもんたけすけ)が1763(宝暦13)年に天草陶石を使って始めたとの記録がある。これを受け継いだ7代目の上田源太夫宜珍(げんだゆうよしうず)の高浜焼の窯元を、のちに瀬戸焼の発展への功績から「磁祖」とあがめられている陶工の加藤民吉が訪れて一時修行をし、宜珍から色絵技法について伝授されて瀬戸に戻ったという史実も残る。天草の焼き物は、世間から「瀬戸物」と呼ばれ、磁器の焼き物の代名詞にまでなる瀬戸焼の隆盛をもたらした歴史にもかかわっているとも言えるだろう。

天草市の東向寺(曹洞宗)の境内にある記念碑。江戸時代の住職、天中和尚と瀬戸焼の陶工の加藤民吉が陶板に描かれており、愛知県瀬戸市から贈られた。民吉は1804(文化元)年、同郷だった和尚の仲介で高浜焼で修業した。瀬戸焼の中興の祖といわれる=天草市提供

「天草・島原一揆」の影響も

 その後、水の平焼が1765(明和2)年、丸尾焼が1845(弘化2)年に開窯するなど、現存する窯元が次々と開窯して陶磁器づくりが盛んになっていく。

 「『陶石の島』から『陶磁器の島』へ」を合言葉に、天草にあった八つの窯元が「天草陶磁振興協議会」(当初の名称は「天草陶磁器振興協議会」)を設立したのは1999年7月のことだ。これを機に、老舗の窯元と行政が連携して天草陶磁器の産地化、ブランド化をめざしてさまざまな取り組みが始まった。翌年の2000年に天草で開催された熊本県民文化祭ミレニアム天草の国際陶芸シンポジウムでは「陶石の島から陶磁器の島へ」と題した住民決議が採択された。

 「豊かな自然に囲まれた天草は、日本一の陶石の産地であるとともに、古く江戸時代からすばらしい天草陶磁器をつくりだしてきた。この歴史と伝統を有した天草陶磁器は、大きく飛躍の転機を迎えている。これから、天草の陶芸家、地域住民、行政が一体となり、全国に誇れる『陶磁器の里』づくりをめざして行動し、豊かな文化と活力に満ちた天草をつくることを、ここに決議する」

 この決議を受け、天草市は2001年度から3年間、「陶芸のまちづくり事業」を実施した。2003年には、天草陶磁器が国の伝統的工芸品に指定された。熊本県内の工芸品としては初めての

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