大矢雅弘(おおや・まさひろ) ライター
朝日新聞社で社会部記者、那覇支局長、編集委員などを経て、論説委員として沖縄問題や水俣病問題、川辺川ダム、原爆などを担当。天草支局長を最後に2020年8月に退職。著書に『地球環境最前線』(共著)、『復帰世20年』(共著、のちに朝日文庫の『沖縄報告』に収録)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
地場産業を生かした新しい観光地づくり
熊本県天草地域は、有田焼や清水焼など全国の有名な陶磁器に使われる陶石の約8割を占める日本一の陶石産地だということは、あまり知られていない。中国からの安価な製品に押され、全国で窯元が減少するなか、「陶石の島」の天草地域で天草陶石や地元の粘土を原料とした「天草陶磁器」の窯元はここ20年で、8軒から30軒を超えるまでに増えた。天草陶磁器を全国ブランドに育てようという「陶磁器の島」づくりへの注目度は年々高まっている。
天草地域は、熊本県の南西部に位置し、天草上島と天草下島、御所浦島などから成る。天草陶石は天草下島の西海岸に脈状に分布する。白さに濁りがなく、焼き物に最適な成分であるのが最大の特徴で、粘土を混ぜなくてもそのまま焼き上げるだけで美しい白磁に生まれ変わる。磁器の原料だけでなく、工業用原材料として送電用の高圧ガイシなど幅広い分野で活用されている。
約300年以上前に発見されたとされる天草陶石は当初、砥石や硯石として使われていた。しかし、焼き物の原料としても優れていることがわかり、品質の高い陶石として生産されるようになったという。江戸時代の著名な文化人として知られる平賀源内は1771(明和8)年、長崎奉行に提出した建白書「陶器工夫書」で、天草陶石を「天下無双の上品に御座候」と絶賛している。
天草の窯元の歴史は古く、高浜村(現在の天草市天草町)の庄屋であった上田家の6代目、上田伝五右衛門武弼(でんごえもんたけすけ)が1763(宝暦13)年に天草陶石を使って始めたとの記録がある。これを受け継いだ7代目の上田源太夫宜珍(げんだゆうよしうず)の高浜焼の窯元を、のちに瀬戸焼の発展への功績から「磁祖」とあがめられている陶工の加藤民吉が訪れて一時修行をし、宜珍から色絵技法について伝授されて瀬戸に戻ったという史実も残る。天草の焼き物は、世間から「瀬戸物」と呼ばれ、磁器の焼き物の代名詞にまでなる瀬戸焼の隆盛をもたらした歴史にもかかわっているとも言えるだろう。