「いのちの分断」が進む社会で必要なのは想像する力、共感する力、そして連想する力
2020年11月23日
彼女のことを考えている。当然、会ったことはない。
居場所はなく、バス停で休んでいた。そして、いきなり殴り殺された。付近の住民は「小柄でおかっぱ頭」だったという。64歳。
どんな人だったのだろう。どこで生まれ、どんな人生を歩んできたのだろう。なぜ、あの場所にいたのだろう。報道では今年の2月まで渋谷区のスーパーで働いていたという。なぜ、仕事と住まいを失ったのだろう。コロナの影響か。
何もわからない。しかし、私たちは想像することができる。できる限りの「想像力」をもって彼女のことを考える。それが残された者の「宿題」あるいは「義務」なのだ。
16日午前5時、東京都渋谷区のバス停のベンチに座っていたOさんが襲われた。路上生活者だったという。救急搬送されたが、死亡が確認された。防犯カメラの映像によると、犯人はベンチに座っていたOさんの頭を袋で殴り逃走。言葉を交わした様子もなく、いきなり殴りかかったとみられる。
21日警視庁は、現場近くの交番に母親に付き添われて出頭した46歳の男を逮捕した。「痛い思いをさせればあの場所からいなくなると思い殴ったが、まさか死んでしまうとは思わなかった」と供述しているという。
凶器となった袋には「ペットボトルなどが入っていた」「石を入れた」などと話しているという。付き添いの母親は「あんな大事(おおごと)になるとは思わなかった」と本人が言っていたと語っている。
Oさんは意識が薄れていく中で何を考えただろうか。そこにあったのは、無念、苦しみ、痛み、怒り、悲しみ……。あるいは、「これで楽になれる」と思っただろうか。
そう思わざるを得ないほど路上生活は苦しい。僕には経験はない。だから、本当のことはわからない。だが、30年数年過酷を極める路上生活をする人を間近に見てきた。「3日やればやめられない」などとちゃかす人もいる。いや、それはあなたが現実を知らないからです、あるいは人としての「想像力」を欠いているからです。
あるホームレスの親父さんは「毎晩祈ってから寝る」と語った。牧師である私は「もしかしてクリスチャンですか」と尋ねた。すると彼は「もう神も仏もありません」と静かに答えたのだ。
彼は何を祈っていたのか。「もう二度と目が覚めませんように」。彼は毎晩そう祈っていたという。言葉の重さにたじろいだ。鈍感な私でさえ、この言葉に野宿生活とはどういうことなのかを考えざるを得なった。
最初にニュースが飛び込んできた時、映像にうつるベンチが事件の背景を物語っているように思えた。二人掛けの小さなベンチの真ん中に仕切りの「手すり」。多くの人は、この「手すり」に違和感を覚えない。しかし、ホームレスの現場を長く見てきた私には、このベンチが事件を象徴しているように映った。
この手のベンチは、ここ二十年ほどの間に全国に広がった。「横になれないように仕切りを付けたベンチ」は、ホームレス対策として設置されたベンチだ。人を拒絶する「最も醜いベンチ」は今も増え続けている。
ベンチに仕切りだけではない。公園の東屋の屋根は外された。駅の待合室は改札の中へと移された。居場所がない人々を何とか引き受けてきた場所が消えつつある。格差が広がり、困窮者が増え、ホームレスが顕在化したころから町は疲れた人が横になる場所を奪い始めた。
事件はこの「最も醜いベンチ」で起こった。最も小さくされた人を排除するそのベンチが殺害現場となったのだ。
「痛い思いをさせればあの場所からいなくなると思い殴った」。これが犯行の理由だった。ふざけるな、と言いたい。
しかし、この言葉はここ数十年、日本中の町々が多かれ少なかれ、口にはしなくても考え「醜いベンチ」という非言語的な具象によって表出させた思いと符号する。
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