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そこまでして夫婦別姓を選ぶというたったそれだけのことを叩きたいのか

もはや、合理性に基づいた選択的夫婦別姓制度を導入しない理由はない

赤木智弘 フリーライター

 選択的夫婦別姓制度導入への期待が高まりつつあるようだ。

 早稲田大学の教授が60歳未満の男女7000人を対象に調査をしたところ、賛成が7割に上ったというニュースがあった(朝日新聞デジタル2020年11月18日付)。しかしこれに対して、反対する勢力の声も大きくなっている。

 自民党有志による議員連盟「『絆』を紡ぐ会」は、下村博文政調会長に対し、旧姓の通称使用の拡充を求める提言書を手渡し、家族の絆や子供たちへの影響を考えて、選択的夫婦別姓制度の導入には慎重になるべきだと主張した。

拡大夫婦別姓調査結果を説明する早稲田大学の棚村政行教授=2020年11月18日、新宿区西早稲田の早稲田大学

同じ名字が「家族の絆」という人たちは女性側のことなど一切考えていない

 さて、僕の立場は選択的夫婦別姓制度の導入には全面的に賛成である。

 というか、そもそも反対する理由がない。

 最近の賛成派の主張である「女性に限らず、どちらかが改姓を余儀なくされることで、公的なものはもちろん、クレジットカードの変更など極めて煩雑な事務手続きが生じる」といった問題はもちろんだが、フェミニズム的観点からの「名字が変わることで、それまでの業績がリセットされてしまう」という視点や、古くからの論点である「女性が男性の名字に変えることで、女性が男性の家に入ることになり、女性が「産む機械」や家の使用人のようにこき使われる、古い家制度が堅持されている」という意見のいずれについても、「ごもっとも」としか言いようがなく、選択的夫婦別姓制度に反対する理由は一切見つからない。

 まず「家族が同じ名字であることで、家族同士の絆が守られる」という点についてはどうだろうか?

 これは逆に考えると「異なる名字では家族同士の絆が守られない」ということになる。自民党本部の委員会でも「子供と孫とおじいちゃんの名前が違うことにもなりかねない」などという声が上がったという(毎日新聞電子版2020年12月1日付)。

 では考えてみよう。「子供と孫とおじいちゃんの名前が違う家族」というのは、本当に現行の夫婦同姓制度下において存在しないのだろうか? 正解は「そこら中に普通にいる」である。

 山田さん夫婦が女児を産んで、その女児が鈴木さんと結婚して名字が鈴木に変わる。さらに鈴木さん夫婦の間に生まれた女児が中村さんと結婚して名字が中村に変わる。これで「子供が鈴木で、孫が中村。そしておじいちゃんが山田」という家族の完成である。「なりかねない」もなにも、今現在においてもそのような名字の家族は普通にいるのである。

 「家族関係において名字が統一される」というのは、日本では主に男性側だけの話であり、女性側の視点でみれば名字がバラバラなのがデフォルトだ。現状でも「子供と孫とおじいちゃんの名字は違う」のである。

 さらに言えば「同じ名字で無ければ絆が守られない」と考えつつ、夫婦別姓に反対するのは「絆が必要なのは男性側の家系のみ。女性側の家系はズタズタでも問題は無い」とすら考えているからだろう。

 この1点だけを考えても、同じ名字であることを「家族の絆」という人たちは、男性側にばかり目が向き、女性側のことなど一切考えていないことがよく分かる。だいたい、そのような人たちは「妻が夫の家に入る」ことを良しとしており、それを隠すために「家族の絆」などというふわっとした言葉を利用しているにすぎない。

 「親の名字が違うと、子供が混乱する」だとか「子供がイジメられる」のような意見もあるが、これらは結局は夫婦が別の名字であることが当たり前になれば、いずれ解消する問題である。孫と母方の祖父祖母が一生に暮らしていれば、自分の名字とおじいちゃんおばあちゃんの名字が違うことに気づくはずだ。それでいちいち混乱している子供はいるだろうか? 

 またイジメについてはイジメる方が悪いとしかいいようがない。自分たちの意見を有利にするために、イジメを持ち出すこと自体が卑怯な攻撃であることを自覚して欲しい。

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筆者

赤木智弘

赤木智弘(あかぎ・ともひろ) フリーライター

1975年生まれ。著書に『若者を見殺しにする国』『「当たり前」をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』、共著書に『下流中年』など。

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