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人生の突然のステップダウンに泣いた私が新しい生き方に気づくまで

退職、ガン、大けが……ステップダウンで見えた不安の時代を生き抜くために大切なこと

山口ミルコ エッセイスト・作家

 かつて幻冬舎の編集者だった私が会社に辞表を出したのは、12年前の今頃…のことだった。ちょうど干支(えと)が一巡した。リーマンショックが起こったあとで、世の中の会社はどこもたいへんだったと思う。

 コロナショックの現在のように、会社がつぎつぎ人を切っていった。

 そんな頃に私もステップダウン…いわゆる「降格」をされたらしいのだが、それはあとになってわかったことで、当時、本人は理解していなかった。

umaruchan4678/shutterstock.com

退社と同時にガンが発覚

 誰にも相談することなく、一人で退社を決めた。

 自分で決めたのだから誰にも文句は言えないが、時間が経つほどに、「あれはいったいなんだったのかなぁ…」と思うようになった。

『バブル』(光文社)
 当時のことを、退社から10年たって初めて書いた。それがこのたび刊行された『バブル』(光文社)である。ようやっと書くことができたのだが、当時はわけがわからず、混乱していた。

 お恥ずかしい話だが、会社の創業期から愛をもってやってきた自分を思うと、なんどでも泣けた。

 その思いがぶり返しては、私を苦しめた。

 そうこうするうち、わが体調の異変に気づく。胸のしこりが、痛み出したのである。少し前からあった胸のしこりが、退社がらみのストレスによって、肥大化したらしかった。

 病院へは一人で行った。乳ガンの宣告を正式に受けた。その帰り道、こわくてこわくて、わんわん泣いた。

 私の人生は、一変した。

 「退社後の日々」はそのまま「闘病の日々」となり、手術、放射線、抗ガン剤、ホルモン剤…といったガン治療のフルコースを、受けた。

 激しいおう吐に苦しみ、全身の毛が抜けて丸坊主になった。

 闘病の記録は拙著『毛のない生活』(ミシマ社)に書いたのでここでは詳しくふれない。

「外へ外へ」が一転、ひきこもる生活へ

 1年半にわたるガン治療はまちがいなく、私にとって人生大転換の、重要なポイント地点だった。それまで出版社の編集者として20年、外へ外へと向かって生きてきた自分は、ひきこもるしかなくなった。

 私がガン治療を始めた2009年は、新型インフルエンザ大流行の年だ。抗ガン剤によって人工的に免疫を抑制していた私は、出かけるときには必ずマスク・帽子・手袋・メガネを着用した。ガン治療を終えて以降も<再発>におびえ、防備していないと不安だったので、いつもそれらを身に着けていた。

 このたび新型コロナウイルスまん延にあたり世でうたわれた「新しい生活」――手洗い・うがい・除菌、3密と不要不急の用を避けステイホーム……などといったものも、“ガンサバイバー”にとっては「一丁目一番地」の、私自身すでに10年以上前からつづけている習慣である。

自分はもう<用済み>のつらさが……

 会社をやめて、ちっともさみしくなかったといえばウソになる。前はあんなに忙しかったのに、ほとんど誰も連絡してこないのだから。

 みんなは<会社にいる私>に用があったのであって、<会社をやめた私>になど用はない。自分は<用済み>だ。そう思えて、つらくなった。

 <用済み>を受け入れるのに、それなりの時間はかかっている。それでも、時間がたつにつれ、これぞ自分にとって正しい状態なのではないか? と、思うようになった。

 <会社をやめた私>のほうが、しっくりくるようになっていったのである。

 朝は携帯アラームや社長からの電話で起きることはなくなり、しぜんに陽の光で目覚める。家族とともに規則正しく食事をとって、その日にすべきことをやり、夕方には雨戸を閉めて、日が越さないうちに眠る。

ほんとうにやりたかったことに気づいて

 過酷な治療によって身体が思うように動かなかったこともあるけれど、静かに家にいる生活が長くつづくなかで、私はしだいに自分自身のそういえばほんとうに好きだったことや、ものや、やりたかったことに気づいていった。

 毎日のように芸能人や文化人といった人びとに会い、会食ではステキなお店でごちそうをいただき、国内外のあっちこっちへ出掛けていたときには気づいていなかったことに。
たとえば私はあんがい勉強が好きだった。会社時代の同僚や友人には信じてもらえないだろう。

 きっかけはガンだ。私は自分がなぜガンになったのかをどうしても知りたかったので、あらゆる本を読んでみた。それまで編集者として時代を疾走するためだったエネルギーをぜんぶ、ガン研究に振り向けた。

 たくさん読んでもけっきょくナゾはとけなかったのであるが、それでもたくさん読むという体験そのものが、私を丈夫にしていった。

 その後、私はロシア語に目覚める。私の父はかつて総合商社のニチメン(現・双日)で旧ソ連との商売(北洋材)に携わっていたので、実家にソ連・ロシアの本がたくさんあった。退社と闘病で実家に帰って、そのことに気づく。そういえば自分の名前もロシア語だった。

 ロシア語学習を始め、ロシアへも行くことになる。そうしたなかで、私は父の仕事とその時代――を時間差で見つめることとなった。私自身のしてきた仕事と時代も、そこに重ねながら、いろんなことを考えた。

本を「作る」人から「書く」人に変化

 そして私は「書く」ようになった。

 本を「作る」人から「書く」人へ、この12年のあいだに職種を変更……。会社ではなく自分に時間をかけた結果、そう変わったのである。

 本を読み、じっくり考え、自分自身と対話する。その繰り返しによっての、変化だった。

 本を「作る」と「書く」は似ているようで、ぜんぜんちがう。バンカーがパン職人になるくらいちがうと、いまの私は思っている。

Dmitry Demidovich/shutterstock.com

二度と前の場所には戻らない

 会社をやめてできた「空きスペース」は、思っていた以上に大きかった。時間の量だけではない、「精神の空きスペース」だ。

 失う前は失うことなど考えられず、失うことにおびえ、必死で守ろうとしていた自分の仕事や過去の栄光…信じたくないが、それがあったのだと思う。

 それらを手放す日は突如としてやってきたが、ステップダウンを黙って受け入れ、自分にやってくる流れに身をまかせた。ぐっとしゃがんで、じっとしていた。誰も恨まず、誰にも愚痴らず、ひたすら静かにうずくまっていた。

 その時期、私の支えになっていたものはたった一つ、「二度と前の場所には戻らない」という強固な意志だ。

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