江戸時代の正月参りは「初詣」ではなかった
2020年12月28日
コロナ禍で各地の寺社が、初詣にも「分散参拝」をよびかけている。警察庁が2009年まで公表していた全国の初詣の参拝者は、正月三が日で9939万人。のべ人数ではあるが、日本国民の4分の3以上に当たる。ふだん神社にお参りすることがなくても、初詣だけは別という人も多いのではないか。正月くらいは、古来の習慣にしたがって由緒正しい伝統行事を・・・そう考えられているかもしれないが、初詣の「歴史」は意外に新しいという。『初詣の社会史』『鉄道が変えた社寺参詣』などの著書がある神奈川大学准教授の平山昇さんは「初詣の伝統を見つめ直して、それぞれの寺社の由緒や歴史を尊重すれば、自然と『分散参拝』は実現するはずだ」と説いている。(聞き手/樋口大二・朝日新聞オピニオン編集部)
――大晦日の晩から元日にかけてに始まって、正月三が日に近所にあるのではない大きな神社やお寺に出かけて、初詣のお参りをする。今はそれが当たり前と思われていますが、平山先生の研究によれば、いまわれわれが考えるような「初詣」は、明治の中頃から始まった習慣だということですね。
平山 はい。ポイントは「いつ・どこに」参拝するかということが、江戸以前から大転換したということです。もちろんお正月参りは江戸時代にもやっていたわけですが、「いつ・どこに」ということに関しては信仰に基づいた非常に細かいルールがありました。元日に有名な神社をお参りする、という今のあり方とはぜんぜん違っていたんですね。それぞれのお寺、神社ごとに大切な縁日が決まっていました。
いまは初詣といえばどこも元日・三が日ですが、たとえば、川崎大師ももともとは正月の21日の「初大師」のほうが大切な日取りでした。お大師さまを信仰している人は、その日は仕事を休んででも参拝に出かけた。成田山も正月の28日の初不動の日が重要でした。都内では水天宮も初水天宮は1月5日です。とにかく、江戸時代は正月1カ月にわたって、「今日はあそこだ、明日はどこだ」というようにもともと分散していたんですね。今回のコロナ禍で初詣の集中を避けるように言われていますが、それぞれの寺社で江戸時代の日取りを復活させるだけでも、「分散参拝」が実現しますよ。
――もともと江戸時代には、元日はいまほど重要視されていなかったのですか。
平山 元日を重視する、という考え方も江戸時代から一応はありました。江戸時代の後半からは、初日の出との関連で元日を大切な日だとする考えが出てきた。世界的にはお月様を重視する方が多いのですが、日本のナショナリズムは「日の丸」のように、月よりも太陽を重視しますよね。
――初日の出の重視は、国学の勃興などナショナリズムの台頭の流れとも関係していたわけですか。
平山 近代のナショナリズムと同じとは言えませんが、江戸時代の後半から、お日様を重視することでアイデンティティを持とうというナショナリズムの原初的形態が、少しずつ立ち現れてきています。ただ、それが近代の初詣にストレートにつながったということではありません。元日だから、ということでお参りするとしたら、その場合は「恵方詣(えほうまいり)」ですね。
――節分の「恵方巻」と同じように、十干十二支をもとにその年ごとに決まった方角(恵方)にある寺社を参拝するというものですね。
平山 はい。どこか有名なところにお参りするというのではなく、5年周期で変わる恵方に歳徳神がいると信じられていたから、その方角にある寺社にお参りするというものです。これは明治に入ると徐々にすたれていきました。昭和30(1955)年、婦人雑誌の「主婦の友」の付録についていた「新しい時代の女性の作法」という冊子には「恵方詣」という項目がありますが、そこにはこう書かれています。
『祖父のお供で恵方詣することになってしまいましたが・・・・・・』
今の若い方には、ほとんど縁のないことでしょうね。でも、今でも東京の下町の方や商売をなさつていらつしやる方、旧家のお年寄など、毎年実行しておられるようです。
恵方は、吉方とも書くように、その年の十干、十二支に基づいてきめられた、『吉』の方向です。この方向にあたる神社仏閣に参詣して、一年中の福徳を祈ることを恵方詣といつています。
心の安定を求める一つの方法ですから、お年寄のなさることを笑つたりしないで、喜んでお供なさつてください。
――この時点で恵方詣は時代遅れの年寄りの迷信、というような扱いですね。昭和30年の婦人雑誌の読者の祖父の世代というと、明治の初めくらいの生まれでしょうか。
平山 そうでしょうね。一方で初詣については「近くに神社仏閣があれば、そこに一日から三日までに参詣します。そのほか、日頃、自分たちの守り神と信じているところや、祖先の祭つてあるお寺などにお参りしてもよろしいでしよう」とあります。
――古い「恵方詣」に対して、自分の好みの寺社にお参りするというのが、新しい近代的な「初詣」のスタイルということですね。
平山 ええ。江戸時代には「いつ・どこに」参拝するかということが、現代の初詣とはかなり違う原理で動いていたんです。「いつ」はそれぞれの神社、お寺の日取りを大切にしてばらばらになっていたし、元日に行くとしても恵方詣ということで、毎年行き先は違っていた。現在のように、毎年お正月の三が日に同じ神社やお寺が何十万人何百万人も参拝客を集めてにぎわうということは、起こりえなかったわけです。そもそも初詣に限らず、何十万人もの人を運ぶインフラがありませんから、一つの場所にそんなにたくさんの人が集まること自体、江戸時代には不可能でした。
――初日の出を拝むというのは、前日の晩からお参りするわけですか。古くは、一家の家長が氏神を祀る神社にこもって歳神様をお迎えする「年ごもり」という習慣もあったようですが。
平山 この場合は出かけるのは朝からでしょう。大晦日は非常に忙しい日だったんです。これは高度成長期前まではある程度そうだったわけですが、江戸みたいな商売人の多い町では、大晦日の晩は節季払いの回収で除夜の鐘を聞くどころではありませんでした。仕事をしているうちに「いつのまにか年が明けていた」なんていう場合も多かったようで、だから元日は寝正月ということになる。戦前の新聞で三が日の初詣を調べてみると、元日よりも2日が参詣者数が多いというケースがしばしばあるんです。元日はもうヘトヘトで家に帰ってバタンキューなんですね。
――よく落語でも聞く話ですね。たしかに昔は真夜中に出歩くこともなかったでしょうし。
平山 大多数の人にとっては、朝、日が昇ってからが「正月」でした。大晦日の夜からお参りに出かけるようになったのは関東も関西も、鉄道の終夜運転がきっかけです。
関東では成田山参詣客を奪い合う京成と国鉄の競争が引き金を
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