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ラケットを携えた老提督

【1】南雲忠一大将(日本海軍)

大木毅 現代史家

 歴史上の人物を評価するには、重層的なアプローチが不可欠であり、また、そうした議論を展開するにあたっては、相当の紙幅を要することはいうまでもない。全人的な分析は言うに及ばず、対象となる人間が選んだ職業や社会的立ち位置における行動を検討するだけでも、ゆうに一冊の書物を必要とするであろう。たとえるなら、それは精密な機材を駆使して撮影した証拠写真のごときものだ。

 ――しかしながら、人間のある側面については、スタジオでカメラマンが撮った写真よりも、気の置けない集まりのスナップのほうが、そのひとらしさをつかむ場合がある。これも比喩を使えば、正面からではなく、横顔を撮った写真が、被写体の特徴をより明確に映し出すこともあろう。

 本連載では、こうした視点から、第二次世界大戦で主役を演じることになった人々、すなわち指導的な立場にあった軍人たちの寸描を試みていきたい。戦争という極限状態において、人間は、もっとも醜悪で愚かな言動と、いちばん美しく、聡明なそれとを同時にひらめかせる。第二次世界大戦という、これまで人類が被ったなかでも最大の惨禍にあっても、それは例外ではなく、本連載が対象とする人々は、美醜と賢愚の万華鏡をかたちづくっているのである。

 筆者は、かかる歴史的存在に、側面からの照明を当て、陰翳豊かな像を浮かび上がらせることに努めたい。そのような作業によって、読者が抱いているであろうヒューマン・インタレストを満足させることができれば、何よりの幸せだ。

畑違いの配置

南雲忠一大将
 作家阿川弘之は、海軍予備学生に志願し、士官として第二次世界大戦に従軍した経験を有していた。その阿川が、海軍の考課表(海軍軍人のそれぞれについて作成される勤務評定録)にもとづく人事システムを論じたエッセイで、「帝国海軍のオールド・グッド・デイズには、この配置へこんな初級指揮官が一人欲しいと要望すれば、人事局はまるで手品のように、ぴったりの人材を送りこんで来たと、かねて聞いていた」と述べている。

 彼の聞き及んだことが、どの程度実態に即していたかどうかの検討は他日を期したいが、こと高級指揮官の人事に関するかぎり、「ぴったりの人材を送り込んで来た」とは、とてもいえないようだ。その問題性は、真珠湾攻撃を実行する空母機動部隊の司令長官という、きわめて重要だったはずのポストにおいて、如実に示されたのである。

 この職に任ぜられた海軍軍人南雲忠一は、明治20(1887)年、米沢の士族の家に生まれた。米沢中学を経て、日本海海戦が生起した年、明治38年に海軍兵学校に入校(36期)。成績は優秀で、明治41年の卒業時の席次は189名中の7番であった。よく知られているように、海軍兵学校の卒業席次は「ハンモックナンバー」と通称され、以後の経歴に重大な影響を与えるのが常であったから、南雲はまず順調なスタートを切ったことになる。

 事実、南雲の海軍士官としてのキャリアは順風満帆だったといってよい。大正9(1920)年には、高級幹部養成課程である海軍大学校を2番で卒業した。その後の経歴も、主要な配置を拾っていけば、巡洋艦「那珂」艦長、第一一駆逐隊司令、軍令部第二課長、第一水雷戦隊司令官、第八戦隊司令長官、水雷学校長、海軍大学校長と、おもに艦隊勤務を中心として、海軍のエリートコースを歩んでいる。得意としたのは、軽巡洋艦や駆逐艦の運用、魚雷による戦闘であった。南雲は、海軍でいうところの「水雷屋」だったのである。

 ところが、日米関係が悪化し、戦争の公算が高くなってきた昭和16(1941)年4月、不可解な人事が発令された。「水雷屋」南雲が、まったく畑違いの航空戦部隊の指揮官に任ぜられたのだ。その配置こそ、航空母艦を中心とする第一航空艦隊司令長官であった。

硬直していた海軍人事

 すでに真珠湾攻撃計画は完成しつつあり、第一航空艦隊もその任に当たるために新編成された部隊だった。すなわち、この空母機動部隊の司令長官は、一日にして日米戦争の前途を決しかねないような重大作戦実施の責任を負うことになる。かかる局面で、空母を運用した経験を持たぬ南雲に真珠湾攻撃の指揮をゆだねるとは、なんとも奇怪な人事ではなかろうか。戦後、優れた指揮官として高い評価を得ている小沢治三郎をはじめ、航空隊や空母には手練れの指揮官はほかにもいたのに、海軍中央は、なぜ彼らをさしおいて、南雲に機動部隊を預けたのか。

真珠湾(パールハーバー)で日本軍の攻撃を受け、黒煙を上げて沈む戦艦アリゾナ=1941年12月7日(現地時間)

 そこには、官僚組織としての海軍の論理が

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