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97歳・豊かに老いを生きる

持続可能な地球環境を求めて行脚

大矢雅弘 ライター

 毎日の生活の中で捨てられる生ごみは、家庭から排出される燃えるごみの約3割を占めるという。福岡市南区の藤本倫子さんは60歳を過ぎて、生ごみのリサイクル運動に身を投じた。酵素を利用して生ごみを堆肥化する装置を考案するなどして、88歳の時に地球温暖化防止活動で環境大臣表彰を受賞。来月で98歳になるが、持続可能な地球環境への祈りを胸に、いまも環境省認定の現役の環境カウンセラーとして歩み続けている。

残りの人生はお返しする人生に

拡大生ごみ減量をめざして取り組みを始めたころの藤本倫子さん=1991年ごろ、藤本環境オフィス提供
 藤本さんは1923年、当時日本の植民地だった朝鮮半島で生まれた。京城(現在の韓国ソウル市)の京城女子師範学校を卒業後、教師になったが、終戦で引き揚げてきた。佐世保(長崎県)で教壇に立ったが、きょうだいも多いため、教職では大家族が暮らせない。そこで学校給食の食材を納める事業を起こそうと決断し、さんざん苦労した末、地元の銀行から借りたお金で事業を始めた。誠実な仕事ぶりが認められ、新しい取引先をいろいろと紹介してもらい、事業は順調に大きくなっていった。

 ところが、事業を起こして15年目の1963年、政府の政策で突然に炭鉱の閉鎖が決まり、取り引きを開始して間もない75社の生協に納めた食料品の商品代がすべて未払いとなった。当時の金額で1178万円。銀行からの借入金返済ができず、倒産に追い込まれた。

 生きる希望までもなくして自死を決意した藤本さんはその年の8月12日、長崎県の島原半島中央部に位置する雲仙・普賢岳をめざした。普賢岳を登る途中、目の不自由な白装束のお坊さんに出会い、「そこを行くご婦人の方」と呼び止められた。「あなたは良からぬことを考えて登っているようだけど、一緒に登ろう。人間は死のうと思ったって死ねない。命は一つしかないからね」と言われ、その後は一緒に山頂をめざした。藤本さんは15日に下山するまで、お坊さんと行動をともにし、言葉を重ねるうち、「もう一度、裸一貫でがんばろう」と思い直した。この出会いがなければ、そこで生涯を終えていた、と藤本さんは振り返る。

 再出発を期した藤本さんは、あえて知人のいない大分県別府市に出て、旅館の住み込み女中の仕事を見つけ、懸命に働いた。その後、大手の生命保険会社の外交員になり、団体契約専門で33年間働いた。在職中は数え切れないほどの社長賞を受けたという。むろん負債も完済することができた。

 生命保険会社で在職満20年を迎えたのを機に1985年には、私財で保育園を開設した。「20年後に必ず私の力で、働くおかあさんのために明るい保育園をつくりたい」。入社時に自身で立てた誓いを実現したのだ。「自然を愛し、他人を愛し、自分を愛す」という「三愛保育」を指導方針に掲げた。行政の規定にしばられて自由がきかない事態を避けたいとして、国などからの助成金は一切受けなかったという。

 藤本さんは60歳を過ぎて、地球環境を主題にした講演会などで話を聞くにつれ、「地球環境を破壊したまま、次世代に引き継いではいけない」という気持ちが日増しに膨らんでいった。「多くの人たちに支えられ、どうにかここまで生きてきた。残りの人生はお返しする人生にしたい。そうでなければ、この世に生を受けた意味もない」との秘めた思いもあった。

 そんな折り、毎日の生活の中で捨てられる生ごみを燃やさなければ、二酸化炭素(CO2)の排出量が減るということを知った。最も身近な日常生活の中の生ごみをなくす運動をしようと決心。藤本さんは、まず本を読み、資料を集め、研修会にも参加するなど懸命の活動をした。さまざまな試行錯誤を重ねた結果、藤本さんが行き着いたのが「酵素」だった。藤本さんは三重県度会町のアースラブ・ニッポン社の開発した酵素を母体にした生ごみ処理器「くうたくん」を完成させた。「くうたくん」は微生物を使って生ごみを分解させ堆肥をつくる装置で、環境保全に役立つと認められた商品につけられる環境ラベル「エコマーク」の認証を公益財団法人日本環境協会から受けている。

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筆者

大矢雅弘

大矢雅弘(おおや・まさひろ) ライター

朝日新聞社で社会部記者、那覇支局長、編集委員などを経て、論説委員として沖縄問題や水俣病問題、川辺川ダム、原爆などを担当。天草支局長を最後に2020年8月に退職。著書に『地球環境最前線』(共著)、『復帰世20年』(共著、のちに朝日文庫の『沖縄報告』に収録)など。

 

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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