持続可能な地球環境を求めて行脚
2021年01月26日
毎日の生活の中で捨てられる生ごみは、家庭から排出される燃えるごみの約3割を占めるという。福岡市南区の藤本倫子さんは60歳を過ぎて、生ごみのリサイクル運動に身を投じた。酵素を利用して生ごみを堆肥化する装置を考案するなどして、88歳の時に地球温暖化防止活動で環境大臣表彰を受賞。来月で98歳になるが、持続可能な地球環境への祈りを胸に、いまも環境省認定の現役の環境カウンセラーとして歩み続けている。
ところが、事業を起こして15年目の1963年、政府の政策で突然に炭鉱の閉鎖が決まり、取り引きを開始して間もない75社の生協に納めた食料品の商品代がすべて未払いとなった。当時の金額で1178万円。銀行からの借入金返済ができず、倒産に追い込まれた。
生きる希望までもなくして自死を決意した藤本さんはその年の8月12日、長崎県の島原半島中央部に位置する雲仙・普賢岳をめざした。普賢岳を登る途中、目の不自由な白装束のお坊さんに出会い、「そこを行くご婦人の方」と呼び止められた。「あなたは良からぬことを考えて登っているようだけど、一緒に登ろう。人間は死のうと思ったって死ねない。命は一つしかないからね」と言われ、その後は一緒に山頂をめざした。藤本さんは15日に下山するまで、お坊さんと行動をともにし、言葉を重ねるうち、「もう一度、裸一貫でがんばろう」と思い直した。この出会いがなければ、そこで生涯を終えていた、と藤本さんは振り返る。
再出発を期した藤本さんは、あえて知人のいない大分県別府市に出て、旅館の住み込み女中の仕事を見つけ、懸命に働いた。その後、大手の生命保険会社の外交員になり、団体契約専門で33年間働いた。在職中は数え切れないほどの社長賞を受けたという。むろん負債も完済することができた。
生命保険会社で在職満20年を迎えたのを機に1985年には、私財で保育園を開設した。「20年後に必ず私の力で、働くおかあさんのために明るい保育園をつくりたい」。入社時に自身で立てた誓いを実現したのだ。「自然を愛し、他人を愛し、自分を愛す」という「三愛保育」を指導方針に掲げた。行政の規定にしばられて自由がきかない事態を避けたいとして、国などからの助成金は一切受けなかったという。
藤本さんは60歳を過ぎて、地球環境を主題にした講演会などで話を聞くにつれ、「地球環境を破壊したまま、次世代に引き継いではいけない」という気持ちが日増しに膨らんでいった。「多くの人たちに支えられ、どうにかここまで生きてきた。残りの人生はお返しする人生にしたい。そうでなければ、この世に生を受けた意味もない」との秘めた思いもあった。
そんな折り、毎日の生活の中で捨てられる生ごみを燃やさなければ、二酸化炭素(CO2)の排出量が減るということを知った。最も身近な日常生活の中の生ごみをなくす運動をしようと決心。藤本さんは、まず本を読み、資料を集め、研修会にも参加するなど懸命の活動をした。さまざまな試行錯誤を重ねた結果、藤本さんが行き着いたのが「酵素」だった。藤本さんは三重県度会町のアースラブ・ニッポン社の開発した酵素を母体にした生ごみ処理器「くうたくん」を完成させた。「くうたくん」は微生物を使って生ごみを分解させ堆肥をつくる装置で、環境保全に役立つと認められた商品につけられる環境ラベル「エコマーク」の認証を公益財団法人日本環境協会から受けている。
藤本さんは1996年には、当時国内にあった3千カ所近い市町村のすべてに、「生ごみなど未利用有機物の資源化と有効活用の推進を求める要望書」と題した要望書を提出した。全国の自治体に環境問題に本気で取り組んでほしいとの願いからだった。郵送するだけではなく、現場の役所にも足を運ぼうと、最初に訪れたのが足元にある福岡市役所だった。そこで担当窓口の職員から思いもしない対応を受けた。「ばあちゃん、いらんことせんでいい。ごみは燃やせばなくなるからいい」。職員のこの言葉に藤本さんは悔し涙を流し、さらなる奮起を促すきっかけになった。
藤本さんはその後、北は北海道から南は鹿児島県・奄美大島まで1千カ所近い自治体に自費で足を運び、ごみ減量の必要性を訴えた。役所だけでなく、小学校や中学校で生ごみ処理の実演を交えて伝える「特別授業」を全国各地で実施。環境教育・啓発活動にも熱心に取り組んだ。その数は約400カ所にものぼる。藤本さんは75歳まで4トントラックを自ら運転し、全国を
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