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「祈り」はコロナの時代を生きる者の光景~不安の日々に絶望しないために

先が見えないコロナ禍の中、祈ることが白々しく感じてしまう時だからこそ……

奥田知志 NPO法人抱樸理事長、東八幡キリスト教会牧師

 「新型コロナウイルス感染症」。昨年の年明け、私たちはこの聞き慣れない言葉と出会った。それが何を意味するのか、何が始まろうとしているのか、私たちは知らなかった。

 それから1年。テレビやメディアからは、「本日の東京の感染者数は」「自粛要請」「時短要請」「重傷者数」、「医療ひっ迫」、そして「死者数」が語られ続け、私たちは一喜一憂した。情報過多ともいえる状況の中で私は、なぜか「沈黙」へと向かう自分を感じていた。

 想定をはるかに超えた事態。感染の恐怖。生活破綻(はたん)の不安。苦しみが波のように折り重なる。「苦しい」ということさえ憚(はばか)られる。本当の苦しみとはそういうことだ。言葉を失った日、私たちは沈黙するしかない。

 言葉にできない私は、あれこれと事象を語ることは止め、「言葉にできないということ」について語ろうと思う。それを「祈り」と捉えたい。私は牧師なので少々、宗教的な発言となるがお許し頂きたい。

MIA Studio/shutterstock.com

「いのち」の前で沈黙する私たち

 なぜ、私は「沈黙」へと向かうのか。それは「新型コロナ感染症」が、「いのち」に関わる事態であるからだ。そして、「いのち」という私たちの基底といえる事柄にもかかわらず、日々耳にする「言葉」はその基底の遥か上を滑っていくように感じてしまう。

 人は「いのち」の前で沈黙させられる。「いのち」は、自分の自由にならない事柄であり、生まれた時から「それは在った」からであり、「生かされている」という言葉がふさわしい。

 新型コロナ感染症に対する闘いが続いている。いずれこの国でもワクチン接種が始まる。だから、ただ諦念を抱き、「黙っている」というわけではない。しかし、事態が「いのち」という人の自由にならない基底に関する事柄である故に、私たちは「沈黙」せざるを得ないのだ。

 「沈黙」は、何もしない、できないと言う意味ではない。「沈黙」の日、人は祈りはじめる。コロナ禍を生きる者たちは、祈り始めている。

 大自然に圧倒され人が沈黙するように、私たちは「コロナという大自然」の前に沈黙しつつある。「コロナとの闘いに勝利する」と意気込んでみても、明日の自分がどうなるかさえわからない。経済はどこまで悪化するのか。次々に登場する「変異種」。先が見えない闇の中を歩き続け、先行きへの答えのない問いの中で、言葉数は減っていく。

沈黙する人は祈る人になる

 生物学者の福岡伸一さん(毎日新聞2020年6月15日)は、「ウイルスは元々、私たち高等生物のゲノムの一部でした。それが外へ飛び出したものです」だと言う。起源が私たち自身であるなら、それを撲滅することなど出来ない。

 「ウイルスに打ち勝ったり、消去したりすることはできません。それは無益な闘いです。長い進化の過程で、遺伝する情報は親から子へ垂直方向にしか伝わらないが、ウイルスは遺伝子を水平に運ぶという有用性があるからこそ、今も存在している。その中のごく一部が病気をもたらすわけで、長い目で見ると、人間に免疫を与えてきました。ウイルスとは共に進化し合う関係にあるのです」

 福岡さんの言葉に少し慰められつつも、「長い目で見る」まで、どれぐらいの感染者と重傷者、そして死者を私たちは目にすることになるのか。コロナ禍が深刻なのは、病気であれ、経済悪化であれ、それが「死」と直結するからだ。死は、私たちを無口にさせる。

 「『いのち』を感じ直す時、私たちに必要なのは言葉ではない。沈黙である。論(あげつら)いではなく、祈りである」(「死者の沈黙」文學界―創刊100号記念特集号)

 これは、随筆家であり東京工業大学教授の若松英輔さんが、ある雑誌に寄稿された言葉の一部である。

 この言葉は2020年11月16日に起きた渋谷でのホームレス女性殺害事件に関して書かれたものだ。死と向かい合う中で「いのち」を感じ直している今の私たちにも通る言葉だと思う。

 コロナが「死」を思わせる。私たちは、当たり前ではない、いったん失われると二度と戻ってこない「いのち」を感じ直している。その時、私たちは沈黙し、その沈黙が祈りへと誘う。沈黙する人は祈る人となる。

ホームレスの女性が殺された現場。バス停のベンチに座っていたところ、男に殴られたという=2020年11月16日、東京都渋谷区幡ケ谷2丁目

祈りは叶わないほうが多い

 「早くコロナが過ぎ去りますように」「元の暮らしに戻れますように」「愛する者を癒してください」……。

 コロナ禍において、多くの人がそのように祈っている。これを、「ご利益宗教だ」と否定することは出来ない。人間の正直な叫びであるからだ。そもそも苦しい時に頼めない神であるならば意味がない。

 だが、そういう祈りが、人びとをいっそう苦しめることもある。なぜなら、どれだけ熱心に祈ろうとも、祈りが叶(かな)うとは限らないからだ。正直に言うと「成就」しないほうが多い。

 念仏以外のものを「雑行(ぞうぎょう)」として退ける浄土真宗では、「祈り」に意味を見出さない。なぜなら、「祈り」は神仏に自分の願いを届けることであり、常に「自己中心」の心から起こるからだ。

 だから、「祈り」ではなく、「自己中心」を根本的に解決してくれる阿弥陀如来への呼びかけ、すなわち「念仏」が必要とされる。。「祈りからの解放」が「念仏」なのだ。本当にそうだと思う。

語るのではなく聴く

 それでも私は、今日も祈り続ける。それは、祈りが単に「自己中心」の行為ではなく、時に他者と出会わせ、自己相対化の営みともなると考えるからだ。

 「信頼のおける宗教」であるかどうかは「祈り」の捉え方による。「祈り」を「自己中心」、あるいは「自己実現」の道具と考えている宗教があるが、果たしてそれでいいのか。「請願成就」が宗教の評価ポイントだと考える人は少なくないが、そのような「祈り」が持つ落とし穴は、浄土真宗の親鸞が指摘する通りだ。

 旧約聖書に登場する「モーセの十戒」にこんな言葉がある。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(出エジプト記20章)。有名な「偶像礼拝の禁止」である。「自分たちの神だけが本当の神で、あとは全部偽物だ」という一神教の傲慢さを示しているようにも読めるが、重要なのは「自分のために」を禁止している点にある。

 人間は自分のために神を創り、それに祈る。これを偶像(偽物)という。人の願いを叶えるために造られた神は、もはや人の奴隷に過ぎず、それによって人は自らを神にさえする。

 確かに祈りは、自分の願いを神仏に届けることである。だが、それ以上に「祈り」は、神仏の意志を聴こうとする「もがき」なのだ。人は祈りの中で、「しょせん人間にはわからない―神のみぞ知る」という現実を知る。その時、人は沈黙するしかなくなる。

 語るのではなく聴く。これも「祈り」なのだ。

theskaman306/shutterstock.com

「請願不成就」の先にある「本当の請願成就」

 人は祈るほど沈黙し、語るほどに聴くようになる。祈る人は、時に自分の思いや願いを脇における。ついには、それを否定することさえ祈り始める。

 イエスは十字架で処刑される直前、死刑から逃して欲しいと「請願」した。しかし、それは「成就」しない。そこでイエスは、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈りを続けた。「わが思い」の否定を祈る時、私たちは祈りの本質に近づく。人を呪縛していた「自己中心の請願」から解放されるのだ。

 「応えられた祈り」という作者不明の詩がある。ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に掲げられているというが、この詩は「請願成就」、つまり「祈りが成就するとはどういう事か」を教えてくれている。

 大きなことをしようと、強さを求めたのに、小さなものの気持ちがわかるように、弱さを与えられた。より大きなことをなそうと、健康な体を求めたのに、より善いことをするようにと、病弱を与えられた。楽しく楽に暮らせるように、お金を求めたのに、生き生きと賢く生きるように、節約の生活が与えられた。世のすべての人に誉められようと、権力を求めたのに、真実に気づき従うように、地に生きる道を与えられた。人生を楽しめるように、あらゆるものを求めたのに、あらゆるものを受け入れ幸せになるように、生きる場を与えられた。
 自分が求めたものは何一つ手に入らなかったけれど、私自身気づかない心の叫びに耳を傾けていてくれた。真実に背いていたにもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられていた。この世界のすべての人の中で、私は最も豊かに祝福されている。

 正直に言うと、私はこれほどポジティブになれない。そんなに美しく言い切ることもできない。けれど、この詩には、祈りの深みが集約されている。

 「請願不成就」の先に「本当の請願成就」がある。だから「思い通りにいかない」とすぐに腐るのはやめておこう。新型コロナ感染症が広がる中、「ポストコロナ」や「新しい生活様式」が模索されているが、それは「請願成就とは何か」という議論を踏まえてなさねばならない。そういう「祈りの視点」が含まれることが大切だと考えている。

祈りの原点は弱さの承認

 先に紹介した若松英輔さんが、「祈り」についてこう述べている。

 「人間がこの世で行い得る、最も熱を帯びた行為は祈りではないかと思っているのです。祈りと願いは違います。願いは自分の思いを神に届けることですが、祈りは超越の声、無音の声を聴くことです。祈りは、自分は弱い者だという地点から始まるのではないでしょうか。祈りを深めるとは、己れの弱さをかみしめることでもある。『私は大丈夫だ』『自分は強い』と思っている人は、あまり祈らないのではないかと思うのです」(拙著「『逃げ遅れた』伴走者」168頁 本の種出版社)。

 若松さんは「祈り」を弱さの承認として捉える。ゆえに、「己の弱さをかみしめる」ことで祈りは深まる。弱さを噛みしめる時、人は最も熱を帯びるようになり、沈黙の中で、祈りが炭火のように燃えはじめる。

 弱さの承認が祈りの原点だとすると、「強くなりたい」「豊かになりたい」と祈る私たちは、どこか根本的な矛盾を抱えていることになる。「コロナとの闘いに勝利できますように」という燃え盛る火のような「請願」は、ままならない現実を前にして鎮火される。
これに対し弱さの承認としての祈りは、「思うままにはならない貧しい自分の現実を受容する」祈りとなり、消えない炎として熱を帯びる。

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