誰が、息をしてるのだろうか?
2021年02月14日
マスクをしていると息がしにくいですよね。マスクをしてない時は、当たり前に息をしていると思って何も感じない自分がいました。しかし、マスクをしだすと、私は、息をして、吐いていることを、より認識させられます。
皆さんもマスクをしたことによって、息について感じることがありませんか? マスクを通して「誰が、息をしてるのか?」という問いがでてきます。
「自分が吸ったり吐いたりしてるんだから、息は、自分がしてるに決まってるだろう」「そんな変な問いを出すな」と叱られそうですね。
でも、私はコロナが我々にマスクをさせて、「もっと呼吸について探求しなさい」と言っているように思えてきたのです。
私は、坊さんをしていますので、職業柄、死の瞬間に付きそうことがあります。これまで数十人の方々の死の瞬間に付き添わせていただきました。
死期が近づくと一つ一つの呼吸が鮮明になってくるのがはっきりわかります。人間は息を吸って止まるという人がいます。ですが、こんなにたくさんの最後の瞬間に付き添っていたのに、私は、最後が吸っていたのか、吐いていたのかあまり記憶にないのです。曖昧なのです。そして、生まれてくる時ですが、息を吐いて生まれるという人がいますが、自分は、生まれてきた瞬間も、また、息を吸ったのか吐いたのか記憶にないのです。
私達は、息を吸うことも吐くことも意識しないで生きています。息をしていることは、本当に不思議ですよね。自分の力以上の働きを感じませんか?
死にゆく人たちに付き添ってきた経験から、一つ危惧することがあります。地球上に生きる全人類がマスクをし始めた結果、呼吸というものに意識を振り向けるようになった今の時代は、死期が迫る人たちの呼吸に意識が集まる状況に似てきたなと思ったりもします。なんだか、我々人類の死期が迫っている予兆なのかなと思ったりすることもあります。そうならない方向を見出すためにも、息について確かめる必要があると思ったりもします。
息について、考えるいい場所がハワイにあります。日本からハワイに来られる方があると是非連れていってあげたいところなんです。
それはオアフ島の西にある「ワイアナエ コースト コンプリヘンジブ ヘルス センター(Waianae Cost Comprehensive Health Center)」という、先住民ハワイアンの方々の考え方で作られたユニークな病院です。
私は、東日本大震災の後、福島の方々にハワイに来ていただく交流プログラムをやってきました。2018年のプログラムに看護師を目指す学生さん達が参加してくださいましたので、将来の看護師さんに福島の将来の病院の在り方を考えてほしいと思い、そのワイアナエの病院を共に訪れました。
どんなところかと言いますと、この病院は、丘の上に建てられているんです。この丘の病院から広大な海が広がっているのが見えます。そして背後には、山があります。その山が私たちを見守るように存在しています。
それから、その山の手前にユニークな散歩道が作られているんです。散歩道というと、都会の街では、エクササイズやダイエットのために、歩きやすいようにコンクリートで作られますが、この道は、たんに身体の健康のためだけではなく、心、精神の回復のためにも作られていると掲示板に書かれていました。
なるほど、その散歩道を歩いていると、樹々があり、その樹々には説明文がついています。これはハワイアンの先祖が薬草として使っていた樹であるなどと書かれてあり、知恵を授けてくれた先祖達にも思いを馳せることができます。フルーツの樹も植えてありました。その中にブレッドフルーツという樹がありました。
散歩道は、都会のように舗装されたものばかりでなく、土に触れさせてもくれます。散歩しながら、土の中で生きている虫達のことを私に感じさせてくれました。時々眼を上に向けると山が身近に見え、下に眼をやると広大な海、そして河が見えます。
その道を歩いていて、私は私が息をしていると思っていましたが、本当は、海、山、河、樹々、たくさんの動植物、土の下で生きている虫達などに助けられて、私は息をしているのだと思わされてきたのです。
この病院の名前に掲げられている「コンプリヘンシブ」とは、英語で「総合」という意味です。散歩道を歩いていたら、それがどういう意味なのか、ちょっと理解できるようになってきました。
日本で総合病院というと、内科、外科があったり、産婦人科など全て揃っている病院のことだと思いますが、ここで言う総合病院とは、そうした技術的なものが集まったという意味ではなく、数え切れない命や様々なものたち、環境の支えによって自分が生かされていることに気づくという意味で「総合病院」と呼んでいるようです。
そこで私は、他の生命や環境の「総合」で生きていると気づかされると同時に、人間が病気から回復するプロセスにおいて、このような総合、総体に出会うことが心身に大きな影響を与えているのではないかと感じさせられました。
息と言えば、ハワイの「ハ」、アロハの「ハ」(HA)です。ハワイアンに「ハオレ」という言葉があります。「人」を言い表す言葉です。「ハ」は「息、呼吸、命、精神」、「オレ」は何と「ない」という意味です。なので、「ハ・オレ」とは「息、呼吸、命、精神がない人」という意味になるのです。
息がない、精神がない人とは、すごい人間ですよね。人間とは思えないですよね。みなさんはどんな人を想像しますか?
たとえば、ダイアモンドヘットという山があります。ハワイ語では「レアヒ」(Lēʻahi) と言い、「まぐろのかま」という意味ですが、ヨーロッパから来た人々は、そこにダイアのように輝いた石を見つけ、ダイアがたくさんあるのではないかと考え、「ダイアモンドヘット」と名付けたようです。同じ山なのに「まぐろのかま」と名付けるのと「ダイアモンドヘッド」と名付けるのでは、捉え方がずいぶん違ってきますね。
欲望で「山」を捉える人々。このようなあり方が、ハワイアンからすると「ハオレ」と呼ばれる「息のない人」たちのあり方です。私も、山や海、川を見ると、あの土地はいくらになるのだろうと金目にみたりする傾向があります。ハオレなる性質を持ちながら生きてるなと自分で感じさせられます。
また、ハワイアンの言葉に、「マラマ、アイナ」という言葉があります。「アイナ」とは、土地という意味ですが、たんなる土地でなく、養ってくれるもの、愛してくれるものという意味があります。「マラマ」は、大切にするという意味です。ですので、「マラマ、アイナ」とは、「もし土地を大切にしたら、土地が我々を養ってくれる」という意味なのです。
仏教に、「報土」という言葉がありますが、アイナは、「報いる土地」にぴったりあてはまります。すなわち、我々の息、呼吸、命は、大地がくれているもの、土地が息をさせてくれるのだから、土地を養ってくれるものと捉え大切にしなさいと言っているように感じるのです。
「山河国土悉皆成仏」との仏教の教えは、山、河、国土、すべて仏である。すなわち、山、河、国土は、われわれを育ててくれる先生であると教えてくれています。
終戦後、日本の復興が始まり自然を切り開く開発があたり前になっていた時に、仏教者、曽我量深は、山、河、国土は理知では捉えられない、「感」によって山、河、国土とつながりを「感得」するのだと、ハワイ先住民のアイナのような自然のとらえ方をしています。「血とは、生きた人間ばかりに血が続いているのではない。山河大地みなである。血のもとは、山河大地である」(歎異抄聴記)と、つながりを「感」でとらえることを教えてくれます。
私は、総合病院に創られた散歩道を歩いて、山、河、土、海、樹々、動植物、虫が私をして息を吸わせてくれていると感じさせられました。そして、呼吸をしながら、命はつながっているということを実感し、山川国土への感謝が生まれてきます。
「あうんの呼吸」という言葉があります。人間同士の中で、微妙な気持ちやタイミングがぴったり合うことだと使われているようです。「あなたとは、呼吸があわない」と言ったりしますね。実は、これは、仏教用語からきてるようです。
我々現代人は、人間中心に考えがちですが、仏教は、生きとし生けるものとの調和を説きます。なので人間どうしの調和だけでなく、生きとし生けるものとの「あうんの呼吸」の調和も考えなければなりません。
私たちは、どれほど他の生き物たちを自分たちの都合で追いやってきたのでしょう。他の生き物からすれば、私たちはまさに「息をしない人」「ハオレ」かも知れません。
コロナは、私たちが人間中心の世界を築こうとしたあまりに現れた、大自然からの警告ではないでしょうか?
コロナは、人間同士だけで呼吸を合わせるのではなく、樹々、山、河、海とも深く呼吸を合わせなさい、そうでなければ、ずっとマスクをした苦しい生き方になるよ、と言っているように思えてなりません。
「息は、誰がしているか」との問いを、私たち人間は今、コロナから問われているように強く思います。
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