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多面体の「猛将」

【3】ジョージ・S・パットン大将(合衆国陸軍)

大木毅 現代史家

青年将校パットン

 1909年に、同期生103名中46番で士官学校を卒業したパットンは、貴族的で陸軍の花形である騎兵科の少尉に任官した。最初に配属されたのは、イリノイ州フォート・シェリダンの第一五騎兵連隊だった。騎兵将校時代のパットンの事績としては、まず、1912年にストックホルムで開かれたオリンピックに、近代五種競技の選手として出場、好成績を収めたことが挙げられよう。また、新しい「1913年型騎兵サーベル」のデザインにも関わった。陸軍で制式採用された、この騎兵刀は、それゆえ「パットン刀」と称されるようになる。つまり、青年将校パットンは、陸軍内部で急速に頭角を現していたのである。

 パットンが初めて実戦を経験したのは、メキシコの革命家パンチョ・ビリャに対する討伐作戦だった。1916年に米墨国境を越えて、ニュー・メキシコ州コロンバスを攻撃してきたパンチョ・ビリャ軍に対し、ウッドロー・ウィルソン大統領は討伐軍派遣を決定した。これを聞いたパットンは、討伐軍司令官ジョン・J・パーシング准将に直接頼み込み、副官に任命してもらった。というのは、当時、彼が所属していた第八騎兵連隊は出征部隊に組み入れられていなかったから、従軍しようと思ったら、からめ手より割り込むほかなかったのだ。

 こうして、士官学校卒業記念に両親がティファニーで買ってくれた懐中時計を携え、メキシコに遠征したパットンは、1916年5月14日、生涯最初の戦功をあげた。3両の装甲車で捜索に出たパットンは、パンチョ・ビリャの護衛隊長フリオ・カルデナスが、ある牧場に潜伏しているとの情報を得て、そこを急襲したのだ。パットンは、なんと自らコルト回転式拳銃を抜いて、カルデナスほか1名を射殺したのである。その死体を装甲車のボンネットにくくりつけ(狩猟の獲物を馬車で運ぶ際のやり方にならったのだ)、司令部に凱旋してきたパットンを見たパーシング准将は、「われわれの陣営にも、

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筆者

大木毅

大木毅(おおき・たけし) 現代史家

1961年東京都生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。専門はドイツ現代史、国際政治史。千葉大学などの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校(現・陸上自衛隊教育訓練研究本部)講師などを経て、現在、著述業。著書に『「砂漠の狐」ロンメル』、『ドイツ軍攻防史』、『独ソ戦』、『帝国軍人』(戸髙一成と共著)、訳書に『ドイツ国防軍冬季戦必携教本』、『ドイツ装甲部隊史』など多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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