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福島からは「逃げる勇気」が必要だったか

『美味しんぼ』「福島の真実」編に見るデマ・偏見・差別

野口邦和 元日本大学准教授・元福島大学客員教授

 2014年、漫画『美味しんぼ』「福島の真実」編で描写された鼻血は一過性で、他の出血症状や急性症状がない。『美味しんぼ』の原作者が福島県内で受けた被ばく線量は、出血症状が起こる線量より桁違いに低い。鼻血の原因が被ばくであるはずはないが、原作者はさも被ばくとの因果関係があるかのごとく執拗に描写する。福島県内で行われている除染を無駄で危険と強く否定し、危ないところから逃げる勇気を持てと全県民に呼びかけてもいた。福島第一原発事故から10年を経ようとする今、本稿を通して私は、「福島の真実」編にひそむデマ、偏見、差別の実態をあばこうと思う。

オルポートとポストマンの法則

 チェルノブイリ原発事故発生の2週間後、事故現場から130キロ南にある人口250万人のキエフ市で「市民の多くが脱毛」という報道が伝わってきた。2週間後に脱毛したとすれば、全身が5~10グレイの被ばくをした可能性がある。人の50%致死線量(短期間に全身が被ばくした集団の中で50%が死亡する線量)が4グレイと推定されていることを考えると、脱毛だけで済むはずはなく、多くの市民が急性放射線障害により死亡してもおかしくない。

 にわかには信じがたい報道だったが、私の周りにいる研究者の間ではちょっとした話題になった。関連する続報はその後なく結局デマだったが、大きな災害時にはデマが飛び交うものであることを改めて思い知らされた。

 その当時、デマの飛び交う量は事柄の重大性と状況の曖昧性の積に比例する、という法則があるのを知った。社会心理学者G.W.オルポートとL.ポストマンが1950年代に見出したものだという。これに従えば、事柄の重大性か状況の曖昧性のどちらかをゼロにできれば、デマの発生は防止できる。

 世界に例のない3基同時炉心溶融(メルトダウン)という住民の生命と暮らしに直結するような原発の大事故が起こった場合、大変不幸なことだが事柄の重大性は申し分ない。ならばなおさら福島第一原発事故の際に政府(原子力災害対策本部)は、事故の状況や講じた措置などに関する情報をその都度的確に公表し、状況の曖昧性を可能な限り低く抑える必要があった。

 しかし、政府の対応が拙劣だったため、とりわけ放射線・放射能に関連するデマが飛び交った。狭い国土に54基もの原発が稼働していながら、学校教育の現場で放射線・放射能についての教育がほとんど行われてこなかったことも、放射線・放射能に関連するデマの拡散を助長させた。知らずに善意でデマを流した人もいたし、情けないことに意図的にデマを流した文化人・知識人や専門家もいた。

大騒ぎになった「福島の真実」編の鼻血描写

拡大週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)の2014年5月19日発売号(左)と4月28日発売号。5月19日発売号の特集記事では「編集部の見解」を掲載している

 7年前の2014年4~5月、大騒ぎになったのが週刊ビッグコミックスピリッツ掲載の漫画『美味しんぼ』「福島の真実」編の鼻血描写である。

 福島第一原発の敷地内をバスで視察した主人公が福島から戻ってから突如鼻血が起こる。同行した他の登場人物も「僕も鼻血が止まらなくなった」「私も鼻血が出た」と合いの手を入れる。また、主人公は「福島に行くようになってからひどく疲れやすくなった」と話す。さらに、前双葉町長が実名で登場し、「私も鼻血が出ます」「福島では同じ症状の人が大勢いますよ。言わないだけです」などと、さも意味ありげに話す。

 前双葉町長は翌週号に再び登場し、「福島に鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いるのは被ばくしたからですよ」と明言する。そして「私は前双葉町長として双葉町の町民に福島県内には住むなと言っているんです」「私はとにかく、今の福島に住んではいけないと言いたい」と、被ばくと鼻血やひどい疲労感との因果関係を強く印象操作する。これは「福島の真実」編で実際に出てくる鼻血描写の一端である。

 さて、短期間に全身が0.5~1グレイを超える高線量の被ばくをすると、急性症状として吐き気、嘔吐、下痢、脱毛、脱力感、倦怠、吐血、下血、血尿、鼻出血(鼻血)、歯肉出血、生殖器出血、皮下出血、発熱、咽頭痛、口内炎、白血球減少、赤血球減少、血小板減少などが起こる可能性がある。これは教科書にも記載されている事柄である。血小板は血液を凝固させて出血を止める役割を担っており、上記の出血症状はすべて血小板減少に由来する。鼻血は出血症状の一つに過ぎず、血小板減少に由来する出血は全身に起こる。被ばくが原因で鼻血が起こり、他の部位の出血やその他の急性症状がないということはあり得ない。

 鼻血は、鼻の粘膜や血管が傷つくことによっても起こる。被ばくが原因でないなら、普通に考えれば原因は物理的刺激だろう。例えば転んだり何かにぶつかったり、あるいは鼻をよくほじる人も鼻血が出やすい。風邪を引いたりアレルギー性鼻炎などの場合も鼻血が出やすい。

 疲労感についていえば、福島第一原発の敷地内をバスで視察中、おそらく相当に緊張しストレスも大きかったと考えられるので、視察後に疲労感が残ったであろうことは容易に想像できる。

 私も福島第一原発の敷地内をバスで視察した体験があるが、1回の視察で受ける線量は0.01~0.02ミリシーベルトほどであった(ここでは1グレイ=1シーベルトと考えてよい)。『美味しんぼ』の原作者一行の視察時の線量も同程度だろう。この程度の線量で血小板減少が起こるはずはなく、被ばくを原因とする鼻血も起こらない。被ばくと鼻血との因果関係を強く印象づける『美味しんぼ』「福島の真実」編の描写はデマであり、放射線医学的には最初から議論にもならない低俗な代物だった。

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筆者

野口邦和

野口邦和(のぐち・くにかず) 元日本大学准教授・元福島大学客員教授

1952年千葉県生まれ。東京教育大学理学部化学科卒業、同大学院理学研究科修士課程修了。理学博士。専攻は放射化学、放射線防御学、環境放射線学。現在は本宮市放射線健康リスク管理アドバイザー、原水爆禁止世界大会運営委員会共同代表。著書に『山と空と放射線』『放射能事件ファイル』『放射能のはなし』、共著書に『放射線被曝の理科・社会』『しあわせになるための「福島差別」論』『福島第一原発事故10年の再検証』など。