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外圧に屈した日本の記者クラブ~閉鎖的とされる記者クラブ、30年前から外国人記者に開放されていた

語学力・取材力不足の外国人記者によるセンセーショナリズム

小田光康 明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所所長

 日本の記者クラブは、あたかも世界でもまれな特殊な閉鎖組織のように語られるが、実際には米国でも情報アクセスの障壁問題があり、記者クラブと同じような閉鎖的なインナーサークルはある。また、海外に記者クラブが無いのは経済合理性からだった。ただ、この情報インナーサークルへのアクセス条件は、ジャーナリスト個人の能力と努力に力点が置かれていた。

 こうした海外での実情を、日本国内で取材活動をする外国人記者は認識しているだろう。いや、批判するからには当然だ。外国人記者からの記者クラブ批判は依然として多い。しかも、その批判の尻馬に乗ってマスコミ批判を展開するジャーナリストや学者も少なくない。

 ただ、記者クラブ批判論者が記者クラブの加盟や記者会見参加の手続きを実際に経験したかどうかは謎だ。少なくとも筆者が複数の記者クラブに所属していた間、単身乗り込んで来て、開放を叫ぶ者など皆無だった。

 今回は筆者の国内での記者クラブ加盟手続きやそこでの取材の経験をもとに、記者クラブ加盟と記者会見参加の問題と、外国人記者の記者クラブ批判の裏側について述べていきたい。

stockphoto mania/shutterstock.com

ブルームバーグが米国大使館を通じてかけた外圧

 まず記者クラブ加盟と記者会見参加の問題である。1990年代初頭。米経済通信社ブルームバーグ通信が東京証券取引所の兜倶楽部で起こした記者クラブ加盟と報道資料アクセス事件がきっかけで、外国報道機関の記者クラブ加盟が認められるようになった。

 この際、ブルームバーグ通信は記者クラブへの直接的な示威行動とともに、創業者のマイケル・ブルームバーグ氏が米国大使館を通じて記者クラブ開放の圧力をかけるなどした。報道の自由を掲げつつ威圧的な態度を崩さないブルームバーグ側に対して朝日新聞社幹部が激高するなど、この様子は同氏の著書『メディア界に旋風を起こす男 ブルームバーグ』に克明に描かれている。

 結果的に、日本の報道機関や記者クラブは米国大使館という政治権力にあえなく屈した。つまり、記者クラブが権力の番人を公言する「公器」とはほど遠い実態が露呈したのだ。日本新聞協会は1993年、「記者クラブは、参入を希望する外国報道機関の記者については、原則として正会員の資格でクラブへの加入を認めるべきである。公式、非公式記者会見への出席はもとより、取材源への公正かつ平等なアクセスを妨げてはならない」とする声明を発表した。外国報道機関の記者とは、外務省発行の外国記者登録証を持ち、日本新聞協会加盟社に準ずる報道業務を営む報道機関の記者とした。

 この声明後、「外国記者登録証」が記者クラブへの通行手形となった。これさえあれば記者クラブに非加盟でも、ほとんどの記者会見には出席できるようになった。また、外国報道機関の加盟申請や記者クラブを基点にした取材活動という面での閉鎖性はなし崩し的に解消されていった。筆者は1997年にブルームバーグ通信に転職したが、そこで貿易記者会、東商記者クラブ、農林水産省記者クラブ、気象庁記者クラブなどの加盟申請業務に当たった。

物理的スペースの不足で、廊下に座り込み記事を書く

 申請では加盟社2社からの推薦が必須なだけで、これ以外に難しいことはない。手続き的な煩雑さや時間が掛かったものの、すべて受け入れられた。ただし、ブルームバーグ氏の強硬な態度への挫折感やディビッド・バット東京支局長の過激な発言に対する遺恨を持つマスコミ関係者も少なくなく、推薦依頼の際に「加盟後は記者クラブの円満な運営にご協力ください」「ここは日本なので、日本なりの取材活動のしきたりがあります」と釘を刺されたり、「ブルームバーグは金融情報サービス業で、報道機関とは言いがたいのではないか」「報道資料を報道目的以外に利用するのではないか」と嫌みを言われたりした。

ブルームバーグ通信など外国報道機関は、正式に加盟できたとしても、記者クラブに常駐して運営業務に携わることは難しい。通常は非常駐・非常勤の会員資格で加盟する。この場合であっても、記者会見やレクチャーへの出席や報道資料の入手などで不利益が及ぶことは無かった。緊急記者会見などの連絡も記者クラブ幹事や事務方が事前に連絡をくれた。

 ただ、問題は記者クラブ内での物理的なスペースの既得権であった。多くの場合、記者クラブは手狭で、既存の加盟社がところ狭しと個別ブースを設けており、新参者がそこに入り込む余地などなかった。また、限られた共有スペースで長時間に渡って業務をすることは事実上不可能だった。このため、記者クラブ外の廊下に座り込んで記事を書くことが多かった。

 取材業務の煩忙さは記者クラブによって異なる。筆者が経験した旧大蔵省の財政研究会や兜倶楽部は連日、記者会見や報道発表などの業務に追われるが、そうでも無い記者クラブも多い。気象庁記者クラブは災害発生時以外に常駐しているのは共同通信だけで、普段はもぬけのからという様相だった。
貿易記者会では毎日のように記者発表があるわけでもないし、クラブ員の多くは他の記者クラブと掛け持ちをしていた。ほとんどの場合、加盟各社のブースはがらんどうで、占有スペースを設ける理由が分からなかった。

センセーショナルな記者クラブ批判は外国人記者の取材力不足の側面も

 記者クラブに加盟できたとしても、非常勤・非常駐であれば新聞協会が定めるような記者のワーキングスペースとはほど遠いのが実態だった。記者クラブ加盟について制度的な参入障壁は撤廃されたものの、そこでの取材活動については実質的な障壁が存続した。このため、欧州連合(EU)の駐日欧州委員会代表部が2002年と2003年の2回にわたって、日本政府に対して記者クラブ制度の廃止を盛り込んだ「日本の規制改革に関するEU優先提案」を提出した。

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 ただ、外国人記者からの記者クラブ批判は鵜呑みにすべきで無い。こうした主張を繰り広げる外国報道機関の外国人記者が、記者クラブ加盟や記者会見出席の手続きに直接携わったケースは多いとはいえないからだ。元ニューヨーク・タイムズ東京支局長の米国人ジャーナリスト、マーティン・ファクラー氏は日本の記者クラブの閉鎖性を痛烈に批判している。筆者は彼とブルームバーグ通信で1990年代終盤、短期間だが総会屋事件などでチームを組んで取材した経験がある。

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