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コロナ禍・放射能災害の中で「正しく恐れる」ことの意味を問う

科学忌避論はなぜ生まれるのか

舘野淳 核エネルギー問題情報センター事務局長

 今日コロナ禍が続く中で、外出制限措置が実施され、マスク着用、手洗い、三密を避けることなどが要請されている。わが国ではコロナ罹患を避けるためにはこうした科学的感染対策が重要であるという認識は広く行きわたり、これを疑う人は極めて少ない。

  一方10年前に発生した東日本大震災による福島原発事故に際して人々を苦しめた放射能災害に関しては、「科学的に対処すべきである」という主張はなかなか受け入れてもらえず、私自身も「科学至上主義である」などと再三批判されたことを覚えている。当時の事情をまとめて出版した本(岩井孝、児玉一八、舘野淳、野口邦和『福島第一原発事故10年の再検証』[あけび書房]、以下『再検証』)の中で、「放射能災害とコロナ禍の科学論」という文章を書き、「科学的対応忌避」の本質はどこにあるのか分析を試みた。

東京電力敷地内に汚染水の貯蔵タンクが並ぶ福島第一原発=2020年10月16日

コロナ禍で明らかになった「正しく恐れる」ことの重要性

 ところが最近朝日新聞「論壇時評」に掲載された「『正しく恐れる』が生む排除」(内田麻理香、2021年1月28日朝刊)という文章(以下内田論考)が目に留まった。その内容は福島事故当時行われた「科学忌避論」の一つの典型であり、看過するわけにはいかないものを含んでいる。同氏の論考を手掛かりに「科学忌避論」の本質を探ってみよう。

 内田論考は次のように主張する。福島原発事故後、低線量被曝を恐れる人に対して「正しく恐れる」という言葉が数多く使われ、ネット上では「放射脳」というレッテルが貼られた。今また「コロナ脳」という心ない言葉を目にする。「正しく恐れる」は科学的知識のあるものが、知識がないとみなす側に対して使った言葉で、自分と感覚が異なり「怖がりすぎる」と思われるものに向けて、「あなたのリスク認知は歪んでいる」と非難する意味合いをもっている。人の感じるリスク認識は一貫性がなく多様だ。一人ひとりが大切にしている文脈を無下にし、また相手を「不合理な理性」をもつとして排除するような「正しく恐れる」という言葉は使うべきではない、と。

 上記主張は、今日のコロナ禍の実状に照らしてみればその誤り、少なくとも論理の不備が直ちに明らかになる。サイエンスライターとして内田氏は、一般市民の感性を大切にしたかったのかもしれないが、科学の位置づけに関して順序が逆である。上記論考では、情緒的感想・感慨が先行しており、何が真実か、何が真のリスクかについて一言も触れていない。人間とは独立に存在する自然(ここではコロナウイルス)、これを理解するための科学という体系、それを伝える科学者という構造を内田氏は全く考慮していない。

 コロナのように人々の行動の誤りが、罹患の危機を生みひいては生命の危険につながるような場合、科学者は真実を全力で主張すべきである。科学の目的は自然を究明して何が真実であるかを明らかにすることにあり、人びとの感性に沿うことにあるのではない。

 確かに、科学が進んだ今日、科学者と一般市民との間のコミュニケーションの困難さがあることは認めるにしても、それは「正しく恐れる」ことを拒否する理由にはならない。コロナ流行下にマスクの着用を拒否して走りまわっていたトランプ支持者のTV映像を思い出せば、このことは容易に納得できると思う。トランプ現象からわかるように、排除・分断は科学を認めないところにこそ生じる。

 以上述べたように「正しく恐れる」とは「科学的であれ」という主張であるが、私はもう少し掘り下げて、次に述べるように「科学を歪めるな」というメッセージでもあると捉えたい。

新型コロナ感染拡大で人影もまばらになった日曜日の渋谷スクランブル交差点=2020年4月5日

科学の論理と人間の論理――ザインとゾレン――は違う

 内田論考は市民と科学者の間のディスコミュニケーションを取り上げているが、低線量被曝の人体に与える影響をめぐっては福島事故直後から科学者のあいだでも(場合によっては市民を巻き込んで)激しい対立があった。

 私は放射線影響学の専門家ではないので、その内容に立ち入ることは避けるが(詳細は例えば宇野賀津子著『低線量放射線を超えて』小学館101新書参照)、一つ言えることは、低線量被曝の影響を過度に重視する人たち(以下低線量重視派)は、福島事故の責任を追及する志向が強く、従来からの放射線影響学の成果を肯定する人たち(以下、重視しない派)を御用学者であると口を極めて非難した。こうした姿勢が、科学的文脈の中に直接倫理的バイアスを持ち込むという行為を生み、虚心坦懐に自然の声を聴くという科学本来の役割を損ねることとなった、と筆者は考える。

 その象徴的な事件が漫画『美味しんぼ』に描かれた被曝にもとづく「鼻血」をめぐる対立である。

 雑誌「科学」掲載の「政府に『鼻血』を認めさせろ」と主張する、ある論文(白石草「漫画『美味しんぼ』問題を考える―政府はなぜ『鼻血』を認めないのか」『科学』2014年9月号)で低線量重視派の論旨の典型例を見ることができる。その特徴は、鼻血が出たはずであるという信念のもとに、それに合致するような事例を集めて、福島での被曝被害を強調するとともに、裁判の記録を引用しつつ「〇〇氏は国立研究機関の役職を持った人だから(低線量被曝の人体影響を否定するのだ)」などと、重視しない派に対する個人攻撃・属人的攻撃を展開する点にある。

 鼻血に関しては、野口邦和氏が最近の「論座」において「福島からは『逃げる勇気』が必要だったか―『美味しんぼ』「福島の真実」編に見るデマ・偏見・差別」と題して、福島事故後鼻血が増えたというデータは一切なく、鼻血は事実無根であると述べている。筆者も野口氏の見解が正しいと考える。

 鼻血は極端な例であるが、こうした低線量重視派の放射線の影響を過大視する様々な言動が、福島の人たちに不安を与え、また差別、偏見などを生み、深刻な苦痛を与える結果となったが、その実態は前掲書『再検証』に述べてある。

抗議を受けた小学館発行の「美味しんぼ」。2014年4月28日発売号で原発取材後の主人公が原因不明の鼻血を出し(右)、最新号では井戸川克隆・前双葉町長の「今の福島に住んではいけない」との発言が描かれた(左)

 なぜこのような現象が生じたのだろうか。それは、科学の論理と人間の論理(倫理、利害など)を明確に区別することなく混同して論ずることが、あたかも良心的科学者であるかのように一部の科学者や科学ジャーナリズムが受け止め、これを推奨したからに

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