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聖火リレーは「汚された五輪」を浄化するか

「理念」や「意義」通りの五輪など実は誰も見たことがない

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

「本来」の五輪を取り戻せるか? という問いの無意味さ

 しかし問題は、「本来の」五輪である。ここまで狂騒曲を奏でてきた不祥事だらけの東京大会も、「やってみれば何らかの意義はある」、「マイナスばかりではなくプラスもあるはず」、「意義を作り出すことがオリンピズムの精神」といった具体的ヴィジョンをまったく欠いた言説が、元オリンピアン、スポーツ研究者、知識人ぶりたいメディア・タレントの間で根強い。すでに社会的災害と言えるほどのダメージを日本社会に与えているメガ・イヴェントの、どこを絞ってももう何も出てこないにもかかわらずだ。

 さらにその奥には、「本来の五輪」、「五輪の理念」、そういったものに立ち返れという、汚された五輪を浄化すればあるべき姿を取り戻せるのだという意見が根強く残っている。前節で「本来の五輪」という言葉を使ったのは、そのような五輪原理主義者に少しだけ近づき一旦議論のプラットフォームを共有しておくためである。

 森喜朗元オリンピック組織委員長の女性嫌悪発言、その後の人事の密室性と男性専有性、これまで以上に「汚れた」印象を与えることになってしまった五輪を浄化する役割を、おそらく聖火は担わされていた。なんといってもただの松明(torch)であり炎(flame)にわざわざ「聖」性を持たせてリレーしているのだ。たとえナチ・ドイツが始めた儀礼だとしても、そのくらいの魔法はかけられるだろうという期待があったはずだ。

拡大オリンピック・スタジアムを目指してベルリンを走る聖火ランナー。五輪旗や立像、林立するナチス・ドイツのハーケンクロイツ旗で通りが飾られている=1936年8月1日

 しかし、「スケジュールの都合」で予定されていた著名人ランナーが次々と辞退し、一般ランナーの中からも森発言への抵抗感やコロナ禍への警戒心から走るのを止めた人々も少なくない。そこに来てあの「ズンチャズンチャ」のコカ・コーラ・トラックである。露骨なスポンサー企業優先の見世物は当然反感を買うことになるだろうという予測はできなかったのだろうか。

 ここで五輪憲章に、「本来」の五輪に立ち返るならば、まず巨大なスポンサーのプレゼンスは理念に反するのではないかという疑問が浮かぶだろう。しかし先に引用した規則61には、「スタジアム内」、「競技エリア内」のみに「いかなるかたちの広告」も禁止となっているだけで、聖火リレーの沿道でだめだとは書いていない。すでに五輪は聖火の「聖」性を利潤で守っているのである。

 しかし、五輪の「理念」へ回帰せよという聖火リレー批判は意味がないのではないか。なぜなら、

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筆者

小笠原博毅

小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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