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婚姻と姓は無関係、家族の姓はバラバラがデファクト ベルギー

【4】「姓が家族としての秩序を守る」は法律上の空論に

栗田路子 ライター、ジャーナリスト

 選択的夫婦別姓の導入に賛成する意見は、様々な世論調査ではすでに多数派になっているが、にもかかわらず法改正は実現せず、国会における議論さえなかなか進まない。日本では長らく「夫婦が同じ姓なのは当たり前」とみなされてきたかもしれないが「『法律で夫婦の姓を同姓とするように義務付けている国』は、我が国のほかには承知していない」ことは政府も認めている(2015年10月6日付参議院での政府答弁書)。それでは諸外国では結婚後の姓はどんな制度によって定められ、人々はどのような選択をしているのだろうか。ヨーロッパを中心に、各国在住のライターがリレー形式で連載する。[第4回/全6回]

 ベルギーでは「婚姻は姓に影響しない」と知った時、私は小躍りした。というのも、日本人の前夫が、結婚3年足らずで急逝して以来、私は自分の姓がころころ変わることによる不便を、何年にも渡って、思いっきり味わわされてきた当事者だったからだ。

 日本人の前夫と結婚した時、多少のためらいはあったものの、それでも世の慣習に逆らうこともなく、夫と新しい戸籍を作り、「筆頭者」の欄に夫の姓名を書いた。こうして、夫の姓を「家族の姓」としたのだ。その瞬間、「私」を証明すべき運転免許証やパスポート、銀行口座やクレジットカードは、とたんに辻褄が合わなくなった。給与の振り込み口座とクレジットカードだけは名義変更を急いだ。運転免許証やパスポートは更新のタイミングがずれた。生命保険や住宅ローンの契約者名も変更しなければと思っていた矢先、連れ合いは急逝してしまった。戸籍上では、両親の戸籍に戻ることもできたが、決めかねたのでそのまま亡夫が筆頭者の戸籍に残り、かなり後になってから、母の願いで旧姓に「復氏」した。

 私を示す氏名がさまざまな書類上で同じになる前に、再出発をかけて、米国に留学することを決意した。TOEFLなどのテストを受け(結婚姓)、日本の大学の卒業証明書(旧姓)などを取得し、パスポートは旧姓だが、学費や航空券を買う際のクレジットカードは結婚姓… そもそも、結婚すると「同姓」にしなければならないルールのない米国社会を相手に、書類によって私の姓が異なることを、どう説明すればよいのか、思わぬ費用や恐ろしい手間を要した。

 このように煩雑な手続きと使い分けの不都合を嫌というほど体験してきた私だから、ベルギー人の今の夫と再婚することになって、自分の姓をいじる必要がなく、これからもずっと「栗田路子」でいられると知った時、全身から力が抜けてとろけてしまうほどほっとした。

風穴をあけたのは職業上での自分の姓の使用

両姓併記のアパートの表札 ©Kurita
 ベルギーはフランス、ルクセンブルク、ドイツ、オランダ、さらに北海を隔てて英国に囲まれた欧州の小国だ。有史以来、人が定住していたが、中世以降は、欧州の手工業や貿易、芸術の要所として栄えた。今では観光地として知られるブルージュやアントワープには、外国の商人が多数定住し、女性の商売人や両替商も活躍していたという。

 近代国家としてのベルギーが建国したのは1831年のことで、まだ200年も経っていない若い国だ。当時、ベルギーは、英国とほぼ同時、大陸ヨーロッパで最初に産業革命を達成して工業が発展し、資本家が育ち、自由な思想や新しい芸術が育まれる「ベル・エポック」と呼ばれる隆盛期を迎えた。だが、長らくフランスの影響下にあったので、法体系の基本はフランスから。フランス革命直後にできた姓名普遍に関する法律や、1804年のナポレオンによる民法典が下敷きとなっている。同時にネーデルランド王国に組み込まれていた時期もあって、独立時の憲法では、ベルギーの実情に見合った民法改正が急がれたが、ナポレオン法に定める家父長制が完全に撤廃され、妻の法的権利が民法で保障されたのは第二次大戦後になってからのことだ。だが、その風穴となったのは、「女性が職業を持つこと」だったようだ。

 家父長制の下で、また、カトリックの保守的家族観の中では、妻は夫の支配下におかれ、家庭内では自らの「姓」を意識する場面はなかったのだろう。だが、前述したように、中世以来、女性も商取引に関わる伝統があり、また、産業革命以降、破竹の勢いで成長したベルギーでは、結婚している女性も、家庭外の職業に駆り出される機会が増え、そこで自らの「姓」を行使し始めたようだ。

 現行の民法上、「姓」についての規定があるのは、以下のみだ。

第216条
第一項 各配偶者は、互いの許可なしに、職業を持つことができる 
第二項 相手の合意がない限り、職業上で相手の姓を用いることはできない。一度合意したならば、深刻な理由がない限り、その合意を撤回することはできない

 あえて民法でこう規定するのは、「配偶者双方に平等に職業選択の自由があること」を明確化し、かつ、「自身の姓の使用」が公式であるが、「夫(または妻)の姓を職業上で通称使用すること」も可能としたことを意味する。

 そして「姓」について、政府の公式ホームページにはこう記載されている。

 「ベルギーでは、唯一の法的に認められた「姓」は、出生届けに記載されたものである」
 「ベルギーの法のもとでは、『婚姻』は配偶者の『姓』になんら影響を与えるものではない。配偶者は互いに結婚前の姓を維持する」

 確かに、かなりの高齢者(おおよそ80歳以上)の中には、かつては通称として「夫の姓」を名乗ってきた女性も多い。だが、医師だった高齢の女友達も、高校教師だった義母も、昨今では、普通のように、自身の姓を名乗っている。

結婚姓だとぎょっとされるベルギー社会

 ベルギー、特に首都のブリュッセルには、EUの主要機関とNATO本部、それらに関連する国際機関が2000以上もあるとされていることから、外国人比率が驚くほど高い。国籍をまたいだ結婚があまりに多く、日本でいうような「国際結婚」という認識はない。同じアパートには、驚くほどたくさんの「外国人」が住んでいるし、一学級20人の中には10カ国以上の異なる背景を持つ子がいるのは普通で、両親共にベルギー人という子どもはむしろマイノリティだ。

 別の国でその国の法律に従って結婚した場合(例:日本で結婚した日本人)などは、それが正式であることを証明できれば、役所などでは結婚姓を正式な姓として登録することもできる。それでもベルギー国籍の人の場合は、あくまで出生時の姓名のみが正式だ。ベルギー人女性のMaria MAES(マリア・マース)さんが、日本で日本人男性の佐藤太郎さんと結婚して佐藤マリアになっていても、ベルギーではあくまで出生時のMaria MAESだけが正式なわけだ。

 ベルギーでは出生時の姓名がデフォルトと知った欧州人の多くは、出生時の姓名を名乗ることにすぐに慣れてしまう

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