偏った情報だけで有罪と決めつけてよいのか
2021年05月10日
紀州のドンファンこと野崎幸助氏が2018年5月に死亡した件で、元妻が逮捕された。逮捕後、「男性の自宅の台所や掃除機から覚醒剤反応が出た」「妻が薬物の売人と接触していた可能性がある」「死亡4時間前から男性と妻は自宅で2人きりだった」などと捜査情報が伝えられている。
世論はそれらの捜査情報を全て真実であると考えているようだ。55歳差の元妻は世間から疑いの目を向けられ、その私生活について真偽不明の情報が飛び交っている。そこにプライバシーはない。
テレビでは、大きなサングラスをかけて外界を遮断するように表情を変えることなく歩く彼女の姿が繰り返し流されている。そのシーンをみて、私は、ある事件を思い出した。
1998年7月、和歌山県園部の夏祭り会場でふるまわれたカレーを食べた人々が次々と倒れ、4名が亡くなった。「和歌山カレー事件」である。
事件の2日後、警察は現場近くに住む林眞須美夫婦が保険金詐欺をしているという情報をつかむ。夫は、過去に「ヒ素」を扱うシロアリ駆除の事業を営んでいた。節目が替わったのは事件から1カ月後のこと。林家で食事をした複数の男性がヒ素中毒になっていたことを報じる記事が出ると、世間の疑いの目は林夫妻に集中し、それに呼応するようにマスコミ報道はさらに加熱した。いわゆるメディア・スクラムだ。
ほどなくして夫婦は保険金詐欺等の容疑で逮捕された。その後、林眞須美は、再逮捕の末に、同年12月に和歌山カレー事件の被告人として殺人容疑で起訴され、死刑判決を受けた。
この事件を思い出すとき、誰もが「あるシーン」を脳裏に浮かべるのではないだろうか。林眞須美が自宅前に集まったマスコミに対して笑みを浮かべながらホースで水を撒くシーンだ。
歴史社会学者の田中ひかるは、次のように述べる。
眞須美による放水は、連日自宅を取り囲むマスコミへのせめてもの抵抗だった。しかしそれは、いかにも「毒婦」らしい「絵」を欲している側にとっては思う壺だった。
現場の状況など知らないテレビの視聴者や新聞、雑誌の読者たちの多くは、「こちら側」に水を浴びせてくる眞須美に嫌悪感を覚えた。…(中略)…眞須美の放水は「絵」になりすぎたのだ。
(田中ひかる著『「毒婦」 和歌山カレー事件20年目の真実』第4章 株式会社ビジネス社)
このシーンは、テレビで繰り返し流され、林眞須美の悪印象を決定づけた。高校1年生だった当時の私も、テレビを観ていて「この人が犯人なんだな」と思っていた。そこに疑問の余地はなかった。公判が始まる前から、彼女はマスコミと世間によって有罪とされていたように思う。
そして今、その放水シーンと、元妻が大きなサングラスをかけて外界を遮断するように表情を変えることなく歩く姿が重なる。その姿はマスコミや「こちら側」にいる我々を拒絶しているように見え、お世辞にも好印象を与えるものではない。田中ひかるの言葉を借りるなら、それは「絵」になりすぎるのだ。
しかし、我々は今一度、冷静にならなければならない。当然であるが、元妻は無実かもしれないのだ。
林眞須美の死刑判決は最高裁で確定している。2009年4月のことだ。これは誰もが知っていることだろう。しかし、和歌山カレー事件は、実は冤罪であった可能性が指摘されていることを知る人は少ないだろう。現に、林眞須美は一度も犯行を自供しておらず、今も獄中から無実を訴えている。
冤罪の可能性を指摘する論拠は次のとおりだ。なお、以下は主に、田中ひかる著『「毒婦」 和歌山カレー事件20年目の真実』と、林眞須美死刑囚長男著『もう逃げない。』に記載された内容に基づいており、そこに私なりの解釈を加えたものである。
・林眞須美には動機がない。彼女はたしかに保険金詐欺を行っていた。それは林眞須美自身も、その夫も認めている。しかし、夏祭り会場で不特定多数の相手に対してヒ素を盛っても、彼女に保険金は入らない。むしろ捜査の手が伸びて、保険金詐欺を暴かれるリスクが高まる。なお、最高裁でも動機は解明されていない。
・林眞須美は午後0時20分頃から午後1時頃までの間にカレー鍋に毒物を盛ったとされているが、
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