労働問題は「派遣切り」「雇い止め」時代より深刻化。報道が問われている
2021年05月20日
衝撃的な事件から半年が過ぎた。
昨年11月16日の未明、東京・渋谷区の幹線道路沿いのバス停で頭を殴打された状態でホームレスの女性が死亡した。
名前は大林三佐子さん、享年64。いつも深夜から未明にかけてバス停で身を休めていたが、無防備な状態で被害に遭った。数日後、防犯カメラの映像からその前後にバス停近くを通りかかった近所に住む男が傷害致死容疑で逮捕された。男は石の入った袋で彼女を殴打したことを認め、動機について「この場所からどいてほしかった」「痛い思いをさせればいなくなると思った」などと供述している。
彼女が所持する財布に残された現金はわずか8円だった。
なぜ彼女はそこまで生活に困窮する状態になってしまったのか。
この事件は、新型コロナウイルスの感染拡大で生活に困窮する人たちが急増している日本社会の象徴的な事件と受け止められ、SNSでは「彼女は私だ」「他人事に思えない」という共感の声が広がっている。
新聞、週刊誌、テレビなどメディアの取材で謎に包まれていた大林さんの人生の一端がかなり分かってきた。
NHKが5月初めに放送したドキュメンタリー番組「事件の涙 たどりついたバス停で〜ある女性ホームレスの死〜」が彼女の人生にもっとも肉薄していた。埼玉県に住む弟の証言をきっかけに彼女が広島県の出身であることや20 代で市民劇団に所属して芝居やミュージカルにも出ていてアナウンサーや声優を目指していたことが判明した。
27歳で上京して結婚したものの夫のDVが原因で1年で離婚した。コンピューター関係の会社に就職したものの退職。数年おきに転職を繰り返していた。
50代の頃からセールスプロモーションの会社に登録して、食品や飲料品などの「試食販売」を請け負っていた。発注があるたびにスーパーに赴いて特定の商品を客に試食してもらいながら買ってもらう仕事だ。短期の契約でこなして収入を得ていた。
この仕事について新聞、週刊誌、テレビなど大半のメディアが「派遣」と報道している。実はこれは正確ではない。なぜなら彼女の「働き方」は労働者派遣法に基づいた派遣契約ではない。登録して報酬をもらっていた会社も派遣会社の許可を得ていない会社だった。このため、派遣労働についてよく理解しないままの間違った報道が多かったと筆者は考えている。
大林三佐子さんの「試食販売」は「業務委託」という働き方だ。法律上はその仕事を請け負うという建前だ。会社に雇用されて労働者として権利が保障されるわけではない。
このため、立場は不安定だ。セールスプロモーション会社に登録し、仕事がある時には働けるが、ない時は働くことはできない。収入もなくなる。仕事があってもなくても一定の給料が保障される正社員(正規雇用)とは根本的に違う。
2008年頃のリーマンショックがきっかけになった不況期に非正規雇用の代名詞のようになった派遣労働とも違う。「派遣」は労働者派遣法という法律で派遣労働者の権利を保護する規定も一応はあるが、それもない。
メディアは「業務委託」という究極的に不安定な働き方だったことにもっと注目すべきではないか。「所持金8円」というところまで困窮に追い込まれていった背景には彼女の働き方が色濃く影を落としていると筆者は考える。
働き方の多様化にともなって正規雇用で働いていた人たちもコロナ不況で仕事を失ってウーバーイーツの配達員になって糊口をしのぐケースなどが目立っている。ニュースを見る限り、派遣、パート、バイトなどで働いていた人たちも流入している。ウーバーイーツの配達員は法律上「個人事業主」として扱われるが、それゆえ自己責任とされがちで労働者としての権利が保障されているわけではない。仕事を請け負う形になる「業務委託」もそれに近い形態だ。
正規の働き方から非正規の働き方へ。非正規の中で業務委託や個人事業主へと不安定さの度合いが増していく。収入も以前よりも少なくなるなど、安定しないものになっていく。
大林さんと同じセールスプロモーションの会社に登録し、大林さんと一緒にスーパーなどで試食販売員として働いていた人が見つかった。A子さん(仮名)。大林さんとの付き合いはおよそ10年。A子さんによると試食販売員の収入はだいたい1日7000円から7500円くらいだったという。
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