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コロナ時代の無常観、そして正義と幸福

「予防文脈」と「危機文脈」のすれ違いを考える

一ノ瀬正樹 哲学者

 コロナ問題に呻吟する現在において、医療の最前線において発生しうる問題性について、私の専攻する哲学倫理学の観点から、義務論と功利主義、あるいは「正義」と「幸福」という対比に沿いながら、以下検討してみたい。

不完全性と非永遠性

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 現実主義的な傾向のゆえだろうか、あるいは、単に年齢が積み重なってきたからだろうか、私は、人間のなすことに完全はないし、永遠に続くこともない、ということを心の底から実感している。

 神ならぬ人間が完全ではありえないこと、これはむしろ論理的な真理と言っていいほど自明である。また、時間は流れ、世界は刻一刻と変容してゆくこと、これも当たり前のことである。けれども、人はなかなかそれを真に受け入れられないときがある。

 いや、理屈の上ではそう理解しているのだけれど、心の底にまではその理解が突き刺さっていない、とでも形容すべきだろうか。自分の見方が絶対正しい、と公言する人はそうはいないだろうが、態度としてそのように振る舞ってしまう場合が私たちには多々ある。倫理的評価や政治的信条などに、それが現れる。

 死刑は絶対必要だとか、原発は絶対廃止すべきだとか。そうした態度は、私たちが日常生活を送る上でもしかしたら必要なのかもしれない。いつも、自分のすること・考えることは間違っているかもしれないし、すぐに成り立たなくなってしまうと思ったら、不安定すぎて毎日を過ごせないだろう。私たちが元気に生きるためには、ある程度の自信が必要だ。

 けれども、事柄が私たちのいのちに関わってくるような場合には、不完全性と非永遠性の認識はかなり本質的ではなかろうか。哲学倫理を専攻する私の観点からすると、絶対正しいと思ってしまう「独善」は危険であり、事態を悪化させることはあっても改善させることはないと思う。逡巡し、他の観点も考慮しながら、しかしいつも後ろ向きになるのではなく、手探りで前に進むのがよい。むろん、この私自身の思いも「独善についてのメタ独善」になってしまっては、自家撞着だろう。なので、一つの可能な理解の仕方として論じていきたい。まずは、前提となることの検討から入ろう。

無常ということ

 そもそも完全とはなにか。たぶん、絶対に間違っていない、ということだろう。では、私たち人間が、この宇宙や世界について一切の間違いを免れた完全な把握に至ることは可能なのだろうか。

 即座に言えること、それは、この世界の現象についての知識など、もとより完全性など望むべくもない、ということだ。私たちは、最初からワクチンの効果に完全性など期待はしない。95%の効果があれば、それで万々歳なのである。効かないケース、副反応の起こる可能性、それは織り込み済みである。というより、哲学的に言うならば、そもそも自然科学一般に関する不完全性に目をつぶるわけにはいかない。

 自然科学は、一定期間のデータをもとにして、何億年前とか何億年後かの予測をしたりする。そうした、既知の情報を未知の領域に拡大適用することを「外挿」と呼ぶ。プルトニウム239の半減期は2万4000年である、といった知識は外挿に基づく。むろん、2万4000年でプルトニウム239の放射性物質の量が半分になることを実際に観察した人はいないので、これは観察可能な期間のデータを拡大して計算した知識にほかならない。こうした「外挿」が可能となるには、自然の法則性は過去から未来にわたって一定である、とする「自然の斉一性」と呼ばれる前提が必要である。

 けれども、哲学はここに待ったをかける。なぜそんな前提が立てられるのか。データもなく経験もしていない遠い過去や遠い未来のことなど、私たちには分からないではないか。自然の法則性が変容するという可能性を、なぜ切り捨てることができるのか。ここには根源的な不完全性がある。

 私は、実は、こうしたことはあまりに当たり前の世界認識だと思っていた。そして、とりわけ日本人にとってはストンと腑に落ちやすい態度だと思っていた。なぜならば、日本的な世界観には「無常」という思想が脈々と流れていると思っていた

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筆者

一ノ瀬正樹

一ノ瀬正樹(いちのせ・まさき) 哲学者

1957年茨城県生まれ。東京大学大学院哲学専攻博士課程修了。博士(文学)。東京大学名誉教授。武蔵野大学人間科学部教授、オックスフォード大学上廣応用倫理センター名誉フェロー。日本哲学会会長。著書に『人格知識論の生成』『死の所有』『放射能問題に立ち向かう哲学』『いのちとリスクの哲学』など

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです