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【1】歪められた「朝鮮人虐殺」の史実

先行研究無視や学術的な不備が指摘されるラムザイヤー論文

加藤直樹 ノンフィクション作家

 ハーバード大学ロースクールのジョン・マーク・ラムザイヤー教授をご存じだろうか。法律分野に属する事象に経済学的にアプローチする「法と経済学」という学問領域の研究者である。1954年生まれで、18歳まで日本に育った経歴をもち、日本の企業や政治経済などの研究で知られる。1990年には日本企業の法的行動様式を検証した著書でサントリー学芸賞を受賞。日本文化への理解促進に貢献したとして、2018年には旭日中綬章を受章した。

 そのラムザイヤーが、今年に入ってから世界的な注目を集めている。最初は昨年末に書いた「慰安婦」問題の論文で、次いで、この数年の間に書いた被差別部落問題や沖縄問題などについての論文によってである。

 多くの人がすでに様々に論じているこの話題について、さらに私まで発言しなければならないのは、彼が1923年の関東大震災時の朝鮮人虐殺についても、多くの信じがたい誤りを含む論文を書いているからだ。私は研究者ではなく、ノンフィクション作家にすぎないが、『九月、東京の路上で』(ころから)で朝鮮人虐殺を、『トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(同)で虐殺否定論(後述)をテーマに書いており、虐殺の史実が歪められるような事態があれば、できるだけ対処したいと考えている。

 その前に、まずはラムザイヤーが注目を集めた経緯から見てみよう。

「ラムザイヤー・スキャンダル」の始まり

 ラムザイヤーが書いた論文"Contracting for sex in the Pacific War"(「太平洋戦争における性行為契約」)が国際的な学術誌のオンライン版に掲載されたのは2020年末のことだ。内容は、経済学の「ゲーム理論」を公娼制度の下での娼妓や日本軍「慰安婦」に当てはめ、一般にその多くが人身売買の犠牲者と考えられている彼女たちが、実は業者との間でゲーム理論でいう「信頼性のあるコミットメント」を成立させていた、つまり自発的に対等な契約を結んでいたと主張するものだ。

 この論文を今年1月に産経新聞が好意的に取り上げ、それを韓国のメディアが報じたことで、こうした歴史問題に関心をもつアメリカ、韓国、日本の人々の間で大きな波紋が広がっている。「事実に反した内容だ」「学術論文の要件を満たしておらず、学術誌に掲載されるべきではない」とする声が韓国や欧米のアカデミズムの世界から上がる一方で、日本国内からは「慰安婦の強制連行がなかったことを証明してくれた」という歓迎の声が聞こえる。歓迎する人々が描き出す構図は、2月25日付の「夕刊フジ」の「『慰安婦』完全否定/米ハーバード大教授/韓国半狂乱」という見出しが象徴しているように、おおむね「韓国」がラムザイヤーを総攻撃しているといったもののようだ。

拡大夕刊フジの見出し=2021年2月24日、東京都内

 だが様々な報道を読むと、それは的外れに思える。むしろ、ラムザイヤーとその論文に関わる歴史学や経済学を中心に、欧米のアカデミズムの中から広範に抗議の声が上がっていることが、この問題の特徴ではないだろうか。

 たとえばハーバード大学東アジア言語文化学科のカーター・エッカート教授と歴史学科のアンドルー・ゴードン教授がラムザイヤー論文を「最悪な学問的真実性の違反だ」と批判し、掲載撤回を求める共同声明を発している。

 ゴードンと言えば、世界的に知られた日本近現代史研究者である。ハーバード大学の歴史学部部長やライシャワー日本研究所所長を務め、『日本の200年――徳川時代から現代まで』(翻訳は、みすず書房)は、日本近現代史の通史としてアメリカの多くの大学で教科書として使われている。2014年には旭日中綬章を受章した。

 エッカートは、ハーバード大学コリアン・インスティチュート所長を務めた朝鮮史学者で、著書『日本帝国の申し子――高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源』(同、草思社)では韓国の経済成長の起源を日本の植民地統治に求めたことで議論を呼んだ。同書のレビューをアマゾンで確認すれば、彼が日本でどのように歓迎されてきたか、一目で分かるだろう。

 要するに二人とも、「反日」とか「韓国の手先」といった安っぽいレッテル貼りで済む人々ではないのである。他にもテッサ・モーリス=スズキをはじめ、多くの日本史学者が抗議の声を上げている。

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筆者

加藤直樹

加藤直樹(かとう・なおき) ノンフィクション作家

1967年、東京生まれ。出版社勤務を経てフリーランスに。著書に『九月、東京の路上で――1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから)、『NOヘイト!――出版の製造者責任を考える』、『さらば、ヘイト本!――嫌韓反中本ブームの裏側』(ともに共著、ころから)、『戦争思想2015』(共著、河出書房新社)、最新刊に『謀叛の児――宮崎滔天の「世界革命」』(河出書房新社)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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