メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

平井大臣「徹底的に干す」よりも本当の問題点

デジタル庁は優れた技術を持つ会社を自ら捨てようとしているのか

赤木智弘 フリーライター

 新型コロナ禍の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、外国人観光客や外国人選手の行動記録用に国が開発したアプリの事業費削減に関する問題で、平井卓也デジタル行革担当大臣が、顔認証技術などを開発していたNECに対して「脅しておいた方がよい」「徹底的に干す」「払わないよNECには基本的には」などと発言していたことが明らかになった(朝日新聞デジタル2021年6月11日付)。

 僕が気になったのはこの問題の「報じられ方」である。

今や暴言は政治家の汚点ではなく美点に?

拡大平井卓也デジタル改革相=2021年6月15日 、東京都千代田区

 まずは大前提として、こうした強権的な態度は卑劣だし、これを「ラフな表現になった」などと言えること自体が大臣としてふさわしくないと考える。過去の日本であれば当然辞任相当の問題発言であるが、第二次安倍政権以降の自民党政権にとっては「責任は痛感するものであって、取るものではない」という姿勢なので、今回も辞任はないだろう。

 というのも、今の日本人は大臣という権力者による高圧的な発言を「卑怯、卑劣」よりも「立派、頼もしい」と好意的に受け入れている感がある。

 こうした傾向は、それこそ長年に渡り財務大臣の座に就き、幾度ともなく暴言を繰り返しながら、それが「麻生節」として好意的に解釈される麻生財務大臣への評価によく表れている。

 そうした高圧的な態度は、それを好ましく思う人たちにとっては「ゴチャゴチャ文句を言う正義ヅラした連中を蹴散らし、俺たちに利益をもたらす素晴らしい政治家だ」という風に見えるようだ。

 「責任者は俺だ!」と言いつつ強権を振るい物事を進めるが、それによって発生した問題に対しては「責任を痛感する」といいながら、実質的には自身はなんら責任を負わず立場の弱い人たちに負担を押しつける。

 そのような政治家が「リーダーシップがある」とか「○○さんはようやっとる」などと好意的に評価されてしまう社会においては、暴言の類は政治家の汚点ではなく美点と化してしまう。今はそういう時代なのである。

 そうした見地で見れば、むしろ今回の「脅し」を全面に押し出した報道方針が平井大臣に対する評価を落とすどころか、むしろ評価を上げかねないのであり、あまり適切な報じ方ではなかったと僕は考えている。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

赤木智弘

赤木智弘(あかぎ・ともひろ) フリーライター

1975年生まれ。著書に『若者を見殺しにする国』『「当たり前」をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』、共著書に『下流中年』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

赤木智弘の記事

もっと見る