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軍艦島の世界遺産登録はなぜ炭坑の坑口跡と護岸内側の石積みだけなのか?

奇観で見るものを圧倒する島の「負の歴史」を闇の中に閉じ込めたままの国と長崎市

高瀨毅 ノンフィクション作家・ジャーナリスト

 コロナ禍でどこも観光客が激減するなか、長崎の軍艦島クルーズは依然根強い人気がある。

拡大船から望む軍艦島。絶壁の護岸が軍艦のようなシルエットを生み出した=2020年9月28日、長崎市

見る者を圧倒する軍艦島の奇観だが……

 海底炭鉱として栄え、1974年に無人となった人工島・端島。通称「軍艦島」。今年4月下旬某日。やや波浪があったため、島への上陸は中止となったものの、30人ほどの観光客がクルーズ船に乗り込んだ。長崎港から約40分。島影が見えてくるとみなデッキに出て、スマホで撮影を始めた。建ちならぶアパートの外壁は長年の風雪で黒ずみ、ガラスがなくなった窓が不気味に黒い口を開けている。

 ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の「世界文化遺産」に登録された奇観は見る者を圧倒せずにはおかない。ただ、観光客の期待に水をさすようだが、軍艦島の一部しか世界遺産の対象になっていないことを、どれだけの人が知っているだろうか。

 どういうことなのか。最大の原因は、世界遺産登録までのいきさつにある。

世界遺産に登録されたのは島の一部

 軍艦島がユネスコの世界文化遺産として登録されたのは2015年7月。軍艦島単体ではなく、「明治日本の産業革命遺産」(以下「産業革命遺産」)を構成する23の資産の一つとしてであった。吉田松陰の松下村塾や萩の反射炉、薩摩藩の旧集成館、福岡県の官営八幡製鉄所、福岡・熊本両県にまたがる三池炭鉱、長崎市の三菱長崎造船所関連施設や高島炭鉱(端島含む)など、多くは九州や山口県に集中している。

 問題は遺産登録の対象期間である。「産業革命遺産」は、幕末の1850年(嘉永3年)から1910年(明治43年)までと、時代を区切っている。それによって何が起きたのか。軍艦島の景観の重要な要素である鉄筋コンクリート(RC)高層アパート群や学校、炭鉱施設の大部分が遺産対象から外れてしまったのだ。なぜなら、それらは1910年以降に建設されたからである。

 その結果、登録資産の対象となったのは、炭鉱の坑口跡とコンクリート護岸の内側にある石積み部分だけとなったのだ。

長崎市は「島全体を世界遺産と考えている」

 軍艦島はもともと南北320メートル、東西120メートルの瀬と岩礁だった。そこを土砂や石、コンクリートで埋め立て、時代とともに拡張していった人工の島だ。護岸造築の際、海中でも固まる石灰と赤土を練り固めた凝固剤の「天川(あまかわ)」が用いられた。その部分が遺産対象の石積みだ。

 一方、日本最古のRC建築である7階建ての30号棟の完成は1916年(大正5年)。以後、住宅や生活施設、炭鉱設備を拡充していったのである。

 しかし、長崎市のホームページでは、軍艦島を市内にある八つの「産業革命遺産」の一つであるとしか書いていない。

 長崎市文化観光部世界遺産室の説明はこうだ。

 「確かに資産を構成する要素は、坑口や護岸部分だが、他の所とも関連している。世界遺産登録の前年に国の文化財保護法によって史跡として指定されてもいるので、島全体を世界遺産と考えている」

 観光資源としての価値を損ないたくないのかもしれない。しかし、これは部分を全体に敷衍(ふえん)した「解釈論」である。


筆者

高瀨毅

高瀨毅(たかせ・つよし) ノンフィクション作家・ジャーナリスト

1955年。長崎市生まれ。明治大卒。ニッポン放送記者、ディレクターを経て独立。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』など歴史や核問題などの著作のほか、AERAの「現代の肖像」で人物ドキュメントを20年以上執筆。ラジオ、テレビのコメンテーターなどとしても活躍。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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