高瀨毅(たかせ・つよし) ノンフィクション作家・ジャーナリスト
1955年。長崎市生まれ。明治大卒。ニッポン放送記者、ディレクターを経て独立。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』など歴史や核問題などの著作のほか、AERAの「現代の肖像」で人物ドキュメントを20年以上執筆。ラジオ、テレビのコメンテーターなどとしても活躍。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
奇観で見るものを圧倒する島の「負の歴史」を闇の中に閉じ込めたままの国と長崎市
問題は、資産対象の期間を1910年で区切った理由である。
1910年。この年に何があったのか。「韓国併合」である。
日本は朝鮮半島を植民地化し、朝鮮統治機関である総督府を置いた。1937年から日中戦争、41年から対米戦争へと戦争が拡大すると、労働力不足に陥り、その肩代わりとして、さまざまな名目で朝鮮人を日本に送り込んだ。特に戦況が悪くなった太平洋戦争末期、各地の軍需工場や鉱山、炭鉱への朝鮮人強制動員は強まった。当時の内務省警保局のデータなどによると、45年8月15日の敗戦時、日本全国にいた朝鮮人の数は約220万と推計されている。
ところで、強制労働、強制連行に関して日本政府は、2021年4月27日の閣議で「朝鮮半島からの日本本土への労働者の動員を『強制連行』とひとくくりにする表現は適切でない」「国民徴用令に基づく徴用・募集・官斡旋により行われた労務は、強制労働には該当しないとして『強制労働』と表現することは適切ではない」との答弁書を決定した。日本維新の会の議員の質問主意書に答えたものだ。
こうした問題はその時々の日韓関係の変化や世論の動きによって議論が起き、解釈が揺れる。
戦時の強制労働問題などを長年研究してきた竹内康人氏の『韓国徴用工裁判とは何か』(岩波ブックレット20年1月刊)によれば、1938年の国家総動員法により「労務動員計画」が立てられた。39年「募集」、42年「官斡旋」、44年に「徴用」と形を変えた。つまり動員という大きなくくりの中に、「募集」「官斡旋」「徴用」があり、この労務動員を強制動員、強制連行という。
竹内氏の論考では、日本国内での元徴用工訴訟でも、日本製鉄(01年)、三菱広島(05年)、三菱名古屋(07年)の各判決で強制労働の事実は認定された。高校の歴史教科書『高校日本史B』(実教出版2017年検定)でも、「集団募集」「官斡旋」「徴用」によって強制連行したことが記述されている。
韓国や中国は、以前から「産業革命遺産」の構成資産のうちの7カ所に、強制労働の歴史があると指摘していた。そこで日本政府は、登録に際しての批判をかわすために、1910年で線を引き、強制労働の歴史を切り離そうとしたのである。
島の暗部を証拠づける書類がある。「端島資料」。市民団体「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」(以下「人権を守る会」)が、1984年に発掘した資料だ。
1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)までの期間に軍艦島で死んだ人の「火葬認許証下附申請書」(以下「火葬認許証」)1296枚と「死亡診断書」である。多くは日本人に関する書類だが、朝鮮人122人、中国人15人の火葬認許証も含まれていた。人が死んだら戸籍から抹消する。「火葬認許証」はその際に必要な書類の一つである。
「人権を守る会」はその後の研究と調査で、軍艦島で働いていた朝鮮人は約500人と推定した。そのうち死亡した朝鮮人は火葬認許証より1人多い123人で、内60人は病死。63人が事故死である。資料を分析した同会元事務局長、柴田利明氏(70)は、「朝鮮人の中には乳幼児や高齢者もいるので、強制動員で死んだ朝鮮人は40人くらい」と見る。
事故死の中には、「変死」や「外傷ニ因スルモノ」「墜落ニ因スルモノ」が計20人。「人権を守る会」では、これらは、リンチ、虐待、暴行による可能性があるとみている。
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