全ての報道機関が問われているもの――「記者逮捕」を考える〈下〉
ジャーナリズムの本務を貫き、現場を守り続けることを職を賭してでも示せ
高田昌幸 東京都市大学メディア情報学部教授、ジャーナリスト
北海道新聞旭川報道部の記者が取材中に逮捕された。この事件は、取材と報道の在り方全体にも大きな問題を投げかけている。3回にわたった連載の最終回は、個別の事件を離れ、報道機関全体が考えるべき諸点を整理した。
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取材倫理基準を示したガイドラインを
国立大学法人・旭川医科大学を舞台とした今回の事件後、ネットでは「公的な場所であっても取材許可を得るのは当然だ」という意見が散見された。しかし、学校や官庁、市民会館といった公共施設、さらには広場や道路といった公共空間でも取材に原則として「許可」が必要になれば、「取材の自由」の範囲は一気に狭まる。
許可には当然、許可する側が存在する。公共施設・空間ではほとんどの場合、許可する側は行政機関や警察などの公権力だ。許可をテコにして取材に制限をかけ、「無許可」を理由に建造物侵入容疑などで法律違反に問い、報道を制限していく事例など古今東西、枚挙に暇がない。公的な場所でも取材許可を常に取得せよという発想は、そういう社会につながっていきかねない。
本当にそれで良いのだろうか。
憲法21条が保障する「表現の自由」に内包される取材・報道の自由は、自由に関する法益の中でも一段と高く保障されてきた。それらは、法律の専門家やジャーナリストらが数々の裁判や判例、法解釈、取材努力を積み重ね、結果として社会全体が得た果実であり、それほど軽いものではない。そして、ジャーナリズムの本務が権力監視である以上、新聞社も当然、その主力として活動することが期待されている。

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉がある。写真はロッキード事件で東京地検に逮捕され、地検から拘置所に向かう田中角栄元首相=1976年7月27日
ただし、前回も記したように、「取材」というだけで法に抵触しそうな行為が一律に免責されるわけではない。だからこそ、公共性・公益性と法の接点を念頭に置きながらも、ジャーナリストはあらゆる取材方法を検討しなければならない。
例えば、不正や不祥事が取り沙汰され、説明責任を放置して逃げ回っている政治家や高級官僚がいたとしよう。彼らから取材するためにジャーナリストはどうするか。普通は、秘書や広報を通じて取材を申し込んだり、立ち話でもいいから肉声を得ようとしたりする。それでもダメなら夜間に自宅を訪問したり、職場の出入り口で待ったりする。場合によっては路上での待ち伏せもあろう。福島原発事故による被害の実相を伝えるため、敢えて立入禁止の規則を破り、原発周辺区域の様子を伝える取材も、こうした部類に入るかもしれない。そして、公共性・公益性が高いと判断すれば、ジャーナリストはリスクを取りながら取材を敢行する。
こうした「ギリギリの取材」には、何が必要とされるだろうか。
報道機関と市民社会が知る権利の重要性を相互に理解していることが大前提だ。そのうえで、特に報道機関側には「自ら不断の説明を続ける」相当程度の努力が要る。

香港民主化を支持してきた「リンゴ日報」の6月21日付の社説。元主筆の馮偉光氏が盧峯のペンネームで執筆、見出しは「報道の自由を守り抜く。後悔はない」。同紙は、経営トップや編集長、関連法人が国家安全法違反罪で起訴され、資産凍結も受け、6月24日付で廃刊した。馮氏は6月27日、同法違反容疑で逮捕された

「リンゴ日報」の最後の編集作業を終えた幹部と記者らが本社編集局でたたえ合った。この6分後、デジタル版ニュースサイトも閉鎖した。最後の6月24日付朝刊の発行は普段の10倍以上の100万部。各地のニューススタンドでは、未明から市民らが購入しようと長蛇の列を作った=2021年6月23日午後11時53分、香港
その一手段としては、報道各社が取材ガイドラインを設定し、どんな場合にどのような取材手法を採用するのかを可能な限り明文化し、公開しておくことが有効かもしれない。ガイドラインには当然、法に抵触しそうな取材手法を取る場合の諸条件も明示しておくべきである。そのうえで実際に問題が生じたら、その都度、ガイドラインの規定と照らし合わせて適否を検討し、市民に明らかにしていく。
ここで言うガイドラインとは「取材の憲法」的な存在として機能させる目的を持つものであり、わずか5項目しかない日本新聞協会の新聞倫理綱領よりもさらに具体的な「取材倫理基準」のようなものを指す。それを備えた報道機関もあるだろうが、それらは、広く公開されてこそ意味を持つ。