開催に向けた「なし崩し」の意思決定
2021年07月08日
5月下旬、東京都渋谷区の代々木公園の樹木の剪定が進められていることがニュースになった。東京オリンピック・パラリンピック用のパブリックビューイング会場にするための工事の準備として行っているという。
私が注目したのは、その準備を始めた理由だ。
担当者がいうには、最終的にパブリックビューイング会場にするか否かはわからないが、現時点から準備(剪定)を始めておかないと、もし「やる」となった場合に間に合わなくなるので、とりあえず準備(剪定)を始めたということだった。
私は、このニュースを観ていて、(おそらく多くの視聴者と同様に)テレビの前で文字どおり仰反った。この状況でパブリックビューイング会場を作ることに世論の理解が得られるはずがないだろう。誰か止める人はいなかったのだろうか、と。
そして同時に、「いかにも日本的な意思決定の仕方だな」とも思った。そう、おそらく本当に「誰も止める人がいなかった」のだ。
そして今、オリンピック・パラリンピックは、結局のところ、「やる」とも「やらない」とも最終的に決めることなく、「やる」となった場合に備えて準備だけは着々と進めているという状態が続いている。
「結局どうするの?」と思い、日々それとなくニュースを見ているが、確たる判断はないままに、気づけばもう開催予定日まで2週間を切ろうとしている。その間も、海外選手団は続々と入国している。
もはや「やっぱりやりません」とは言えない空気感がそこにはある。
巷では、「IOCとの契約上、日本側には中止にする権限がないのだから、やるしかない。他に選択肢はない」という言説が見られる。果たして本当にそうなのか?
2013年9月に、国際オリンピック委員会・東京都・日本オリンピック委員会の三者で締結した「開催都市契約」は、準拠法がスイス法となっている(開催都市契約87条)。
この点、スイス連邦弁護士のミハエル・ムロチェク氏によれば、日本が中止を申し出た場合の損害賠償の支払い義務について、次のように考えられるという。
まず、同氏はスイス民法第97条1項「義務を全く履行しなかった債務者は、自分に過失がないことを証明できない限り、損害を賠償しなければならない」を示した。原則としては支払い義務を負うようだ。その一方で同氏は第119条1項「債務者に帰責事由(落ち度)がない状況により履行が不可能になった場合、履行義務が消滅したとみなされる」を掲げる。つまり不可抗力の場合は支払いが免除されるのだ。
…(中略)…「パンデミックによる影響は誰にも予測できなかった。従って2020年夏の状況が予測できないと仮定し、第119条1項を適用することは、この文脈ではそれほど不合理ではないと思われる」と説明する。(「「東京五輪中止なら多額の賠償金」は本当? 判断基準 “スイス法” の専門家は意外な見解」2021年5月19日付東スポWeb)
つまりこういうことだ。
契約(=合意)は守られるべきだ。よって、契約で定められた義務(五輪の開催)を履行しない場合には、日本は損害賠償責任を負うのが原則だ。しかし、そこには例外がある。それは、不可抗力によって義務の履行ができない場合だ。その場合は、義務を履行できないとしても、その当事者(日本)に落ち度はないので、損害賠償を支払う必要がない。そして、今回のコロナ禍は「不可抗力」に該当し得る、というわけだ。
実は、こういった考え方は、日本の民法でも同様だ(民法第415条)。もともと日本の民法の起源は、英米法ではなく、ヨーロッパ大陸法にあるため、同じくヨーロッパ大陸法に属するスイス法と法概念が似ているのであろう。
日本民法第415条(債務不履行による損害賠償)
債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき又は債務の履行が不能であるときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし、その債務の不履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。
なお、「開催都市契約66条ではIOC側の契約解除権しか定めておらず、日本側の契約解除権を定めていないから、日本は中止にできないのではないか?」という言説があるが、それは議論が少しずれているように思う。
つまり、「契約を解除できるか」という問題と、「契約に定められた義務を履行するか否か」という問題は区別しなくてはいけない。仮に日本側で契約の解除ができないとしても、日本側でその契約に定められた義務を履行しないと判断することはあり得る。そして、そのように日本側に債務不履行があった場合に、日本側が損害賠償責任を負うのかということが問題となり、そこで上記の「不可抗力」に該当するかという論点が出てくるというわけだ。
以上のように見てくると、「日本側には中止にする権限がないのだから、やるしかない。他に選択肢はない」という言説は、ミスリードであるように思われる。
とすると、日本側でも、開催するか中止にするかという判断を迫られることになる。
しかし、そもそも、今回のオリンピック・パラリンピックを「やる」か「やらない」かについて、日本側で一体誰が最終的・実質的な決定権を持っているのかが、いまいちよく分からない。日本オリンピック委員会なのか、大会組織委員会なのか、都知事なのか、総理大臣なのか判然としないのだ。
どうも皆一様にリーダーシップを取ることを避け、「やる」と明言することを避けているように見える。いざやってみて、感染が拡大してしまった際の責任を負いたくないからだろう。
そうして、対岸の火事であるIOCを除いて、日本側では誰も「やる」と明言しないままに、ただただ「やる場合に備えた準備」と称して、既成事実だけが積み上げられていく。
おそらくオリンピック・パラリンピックはこのまま、誰も「やる」とも「やらない」とも最終的に決めることなく、引き下がることができなくなった結果として、なし崩しに開催されることになるだろう。
そういった状況を見ていて、私はある書籍を思い出した。
元東京都知事で作家の猪瀬直樹氏による『昭和16年夏の敗戦』だ。同書は、太平洋戦争に突き進んでいった際の日本の意思決定のあり方を描いたものである。
私には、その意思決定のあり方と、今回のオリンピック・パラリンピック開催に向けた意思決定のあり方が、本質において酷似してい
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