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松坂大輔は「球界の救世主」だった──野球人気の回復から球数制限まで

氏原英明 スポーツジャーナリスト

甲子園の観客動員数が増加、田中将大や斎藤佑樹が続いた

 松坂を一言で表現すると、「平成の怪物」ではなく「平成の救世主」だと個人的には思っている。なぜなら、彼が登場しなかったら、甲子園であのフィーバーがなかったら、野球界はとうの昔に、他競技の勢いに飲み込まれていた気がしてならないからだ。

 松坂が春夏連覇を達成した1998年頃、実は高校野球は最盛期からの下り坂を迎えている時だった。日本高等学校野球連盟が発表している甲子園の観客動員数を見てもそれは明らかで、90、91年のピーク時の90万人台から下降線を辿り、96、97年に至っては、60万人台まで減っていたのだった。

 92年にJリーグが立ち上がり、漫画「SLAM DUNK(スラムダンク)」の流行とともに、サッカーとバスケ人気が高騰し始め、野球は人気スポーツの第1党の座から揺らぎつつあったのだ。加えて、98年はサッカー日本代表が史上初めてW杯に出場した年でもあった。

 その年に松坂が登場したのだ。

 97年の秋の明治神宮、98年春の選抜を連覇。横浜高、そしてエースの松坂は誰しもが目標とする存在となり、同世代の球児たちを刺激したのである。

 それでも松坂は並みいるライバルたちをなぎ倒して夏の頂点にたったのだ。

 それも、決勝戦でノーヒットノーランという偉業を達成する形で。

1998年夏の甲子園大会の決勝、京都成章戦でノーヒット・ノーランを達成した松坂大輔(横浜)拡大1998年夏の甲子園大会の決勝、京都成章戦でノーヒット・ノーランを達成した松坂大輔(横浜)

 その年の夏の甲子園の観客動員数は90万近くまで回復。80回の記念大会で出場校数が増えたから参考記録ともいえるものの、1日の平均動員数では3000人もアップ。当時の盛り上がり具合がいかに凄まじかったか、推して知るべしだろう。

 その後は雨が多かった2003年の大会こそ観客動員数を落としたものの、駒大苫小牧―早実の決勝再試合のあった2006年に高校野球人気は再加熱、その後の清宮幸太郎フィーバー、2018年の100回大会の100万人を記録するところまで繋がっている。2006年の田中将大(楽天)や斎藤佑樹(日本ハム)の世代が松坂の投球を見ていたのが10歳くらいと考えれば、その影響があったと容易に想像できる。

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筆者

氏原英明

氏原英明(うじはら・ひであき) スポーツジャーナリスト

1977年、ブラジル・サンパウロ生まれ。奈良新聞記者を経て、2003年からフリーランスに。著書に『甲子園という病』(新潮新書)。『メジャーをかなえた雄星ノート』(文藝春秋)の企画・構成を担当している。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです